》も、あなた様のお話を伺ったわけではありませぬ故、どうぞお赦し下さいませ」
「いかん、もしお前が声を立てたり、逃げ出そうとしたりすれば、不憫《ふびん》ながらお前を斬る。拙者がこの席を動くまでじっとしておれば、無事にゆるしてやる」
「はい」
この、お松を預かった人というのは、机竜之助です。お松のためにも兵馬のためにも仇《かたき》たる机竜之助が、芹沢鴨一派の頼みで、これから近藤勇一派を暗殺しようと、その合図が整うて、ここに来合わせたもの。机竜之助は、薄暗い行燈《あんどん》の火影《ほかげ》を斜めに蒼白《あおじろ》い面《おもて》に浴びて、小肴《こざかな》を前にチビリチビリと酒を飲んでいます。
お松を前に置いて、縛るでもなければ嚇《おど》すでもなく、さりとて冗談《じょうだん》を一つ言うでもなく、竜之助はチビリチビリと酒を飲んでいる。時々酒の手を休めては、眼をつぶってじっと物を考え込む。
「うーむ」
考え込むと、深い吐息《といき》で、手に持つ猪口《ちょく》がフラフラと傾いて酒がこぼれそうになる。気がついてグッと呑んで、余滴《よてき》をたらたらと水の上に落して、それを見るともなく見つめて無言。
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