嫌《きら》いじゃ」
「そうか、貴様は嫌いか」
「水戸様からいただいたお盃には、お手ずから草体《そうたい》で『水』と書いてござんすのじゃ」
「それがどうした」
「それが、秀五郎忠義の看板でござります」
「うむ、豪《えら》い奴だな、貴様は」
 芹沢は皮肉な言葉で、意地悪く小野川をひやかそうとする。このたびの喧嘩の落ちは近藤に取られて、それからメッキリ芹沢の人望が落ちた。それが癪《しゃく》にさわって芹沢は、今宵《こよい》も小野川に突っかかってみる、小野川も虫がいず無言で白《しら》けていた時、
「小野川、ちとこっちへ来い」
 二三枚離れていた土方歳三が小野川を呼びかける。

 お松は、座敷の人混《ひとご》みに上気して、ひとり誰もいない室へ来て、ホッと息をついて、熱《ほて》る頬を押えています。と、次の間で人のささやく声、
「よいか」
「うむ」
 念を押した声と、頷《うなず》いた声。
「近藤の馴染《なじみ》という女は誰だ」
 誰とも知れぬ人の声。
「御雪《みゆき》、木津屋の御雪というのだ」
「ナニ、木津屋の御雪……」
 お松は、聞くともなしに耳に入った名は自分の姉分になる御雪太夫のことですから、思
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