ころへ、田原本の方から早足に歩いてくる旅人。それは裏宿の七兵衛であったが、摺《す》れちがって竜之助の方で、それと気のつかなかったのは無理もないが、七兵衛の方で竜之助に気のつかなかったのは、竜之助が小荷駄《こにだ》の馬の蔭に見えがくれであったのと、一つには無腰《むこし》であったから、刀を差して歩く人のみをめざした七兵衛の眼を外《はず》れたものと見えます。
 八木の宿へ入った七兵衛が、何心なく寄り込んだは偶然にもかの女夫餅《めおともち》。
「御免よ」
「はい、おいでなさいまし」
 七兵衛が腰をかけたのは、竜之助が置いて行った刀の直ぐ近い所でした。
「ここに怖《おっ》かないものがある」
 七兵衛は饅頭を食いながら、さきほど竜之助が置いて行った刀を少し横の方に避けると、亭主は、
「お客様、その刀をお買いなすって下さいませぬか」
「わしに買えと言わしゃるか」
「へえ、たった今、食い逃げの抵当《かた》に取った代物《しろもの》でござります」
「なるほど」
 七兵衛は、手をのばして刀をこっちへ引き寄せる。七兵衛もちょっとした刀の鑑定《めきき》ぐらいはできる男であったから、
「拝見してもよいかな」
「へ
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