ろへ手を入れてはみたが実は百二十文しかない。
「亭主、まことに相済まんが」
 竜之助は財布を逆《さか》さにして、
「持ち合せが、これだけしかない、百二十文――」
「何でございますと」
 饅頭屋の亭主は、少しく眼の色を変える。
 竜之助が、もう少し如才《じょさい》なく詫《わ》びをしたら、或いはそれで負けてもらえたかも知れぬ、またこの店の亭主が、もう少し情けを知った人ならば、それで我慢《がまん》したかも知れぬ、しかしながら、竜之助は誰に向ってもするように、ない袖は振れぬ、ないものは払えぬというのが不貞《ふて》くされのようにも取れば取れるので、勘定高い亭主が承知しない。
「なんと言っても、ないものはないのだ」
 竜之助は、ツンと言い切る。この場になっても竜之助には、これ以上のことは言えない。頭をたたいて哀求《あいきゅう》するなどということは、どうしたってできないのです。
「よろしゅうございます、左様ならば出る所へお出なさい」
 亭主は襷《たすき》をはずして、どこへか行こうとする。
「待て、主人、どこへ行く」
 竜之助は呼び止めると、
「このごろは諸国の浪人や無頼漢《ならずもの》が入り込んで、
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