、竜之助は本を伏せる。
隣へ来た客というのは、火縄の茶店で竜之助と別れた男女。竜之助は再び耳を傾くるまでもなくそれと悟《さと》って、そうして奇妙な心持がしました。
「参宮の帰りにしてはあまり早い」
今宵はあまり客も混雑せず、大寺《おおでら》にでも泊ったような気持。静かにしていると、襖《ふすま》を洩れて聞ゆる男女の小声が、竜之助の耳に入ります。
「明日は京都へ着きますなあ」
「京都へ着いたとて……」
男は歎息の声。
「わたしは、早うお雪さんに会いたい」
これは、お浜に似た女の声。
「妹に会うたからとて、どうなるものではない……ああ、わしはいっそここで死にたい」
「ほんとに、死んでしもうた方が……」
ここで、また話が途切《とぎ》れます。
竜之助思うよう、やっぱり、これは無分別《むふんべつ》な若い者共じゃ。
「わたしじゃとて、もう亀山へは帰れず」
「わしも京都へは帰れず」
「死んでしまおう、死んでしまおう」
この声は少し甲《かん》を帯びて高かった。竜之助がこちらにあることを知らないものだから。
男は死んでしまおうと言う、女がそれに異議を唱《とな》えないのはそれを黙認している証
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