来た」
「女の姿が――」
「女の姿が?」
 竜之助は、左の手を差置いた刀にかけて、室の中を見廻す。切れの長い目は颯《さっ》と冴え返る。
 お松は知らず知らず竜之助の膝に身を寄せていた。
「ハハハ」
 竜之助の笑って打消す声は、かえってものすさまじさを加える。
「なにをばかげた」
 お松は、竜之助の傍を離れ得ない。竜之助の傍を離れられないくらいに怖ろしいものを見た。
「あの、お武家様、昔からこの部屋には幽霊が出るように申し伝えてありまする」
「この部屋に幽霊が?」
 改めて竜之助がこの部屋を見廻すと、「御簾《みす》の間《ま》」であった。
「昔、九重《ここのえ》という全盛の太夫さんが、ここで自害をなされました」
「ふーむ」
「その太夫さんは、やんごとなきお方の落《おと》し胤《だね》、何の仔細《しさい》があってか、わたしはよく存じませねど、お身なりを平素《ふだん》よりはいっそう華美《はで》やかにお作りなされ、香を焚《た》いて歌をお書きになって、懐剣でここを……」
 お松は、自分で自分の咽喉《のど》を指さして戦慄する。
「ふーむ、そんな由緒《いわれ》のある部屋か」
「でございますから、怖ろしゅうございます」
「怖ろしいことはない」
 竜之助は、また首垂《うなだ》れて酒を飲み出す。怖ろしさから傍へ寄ったお松の化粧《けしょう》の香りが紛《ぷん》としてその酒の中に散る。竜之助は我知らず面を上げると、ややあちら向きになっていたお松の、首筋から頬へかけて肉附よく真白なのに、血の色と紅《べに》の色とが通《かよ》って、それに髪の毛がほつれて軽く揺《ゆら》いでいる。
 自分の膝には、お松の手が置かれてある――竜之助はそれを見る。涸《か》れ果てた泉に甘露《かんろ》が湧く。竜之助も前にはお浜をこうして見て、心を戦《おのの》かしたこともあった。
「おお怖い」
 お松は、はじめて自分の所在を知った、その身はあまりに近く、その手が竜之助の膝の上にまであったのに気がついて、きまりが悪い――あわてて身を縮めた時に、竜之助が燃えるような眼をして、自分を見据えていたのでかっ[#「かっ」に傍点]としました。
「お前はいくつになる」
「いいえ」
 お松は、つかぬ返事をする。
「静かになったな」
「あれ、また何か!」
 お松は、床の間の方を見る。
「ナニ!」
 竜之助は猪口《ちょく》を取落した。
 お松がいま言うた九重の亡魂《なきたま》でなければ、竜之助の身の中から湧いて出る悪気《あっき》。
 この「御簾の間」は、時としてどこからともなく風が吹いて来る。
 その風がしゅうしゅうとして梁《はり》を渡り、或るところまで来てハタと止まると、いかにも悲しい歔欷《すすりなき》の声が続く。
 誰も、そんなものを聞いたものもないくせに、そんな噂をする者はある、ホントにそれを聞いた人は、命を取られるのだという。お松は今それを聞いた――と自分ではそう信じてしまったらしいのです。
 竜之助は手が戦《おのの》いて猪口を取落した。
 その取落した猪口を拾い取ると、何と思ったか、力を極めて、それを室の巽《たつみ》の柱の方向をめがけて発止《はっし》と投げつける。猪口はガッチと砕けて夜の嵐に鳴滝《なるたき》のしぶきが散るようです。
 と見れば、竜之助の眼の色が変っている。
 竜之助の眼の色は、真珠を水に沈めたような色です。水が澄む時は冴《さ》える、水が濁る時は曇る。冴える時も曇る時も共に沈んだ光があった。今はその光が浮いて来た。
 猪口の砕けて飛んだ室の中を、ここと目当のなく見廻した時の眼は、かの音無しの構えにとって意地悪く相手を見据えた時のような落書きがなく、不安と、そうして散漫とがようやく行き渡る。
「うむ――」
 額を押えて力なく折れた。
「どうかなさいましたか」
「頭が痛い」
「それは困りました」
「眼が廻る」
「お薬を差上げましょう」
 お松はふいと立った。
「いや、それには及ばん」
「それでは、お冷水《ひや》を」
「何も要《い》らん」
 竜之助は額を押えて薬も水も謝絶《ことわ》る。しかしながらよほどの苦しみには、うつむいた面《かお》が下るばかりです。
 お松は、この時ふいと気がついた、逃げるならこの間《ま》である――
「待て!」
 うつむいた面がバネのように上ると、竜之助は刀を取っていた。
「逃げるか!」
「いいえ」
「そこへ坐れ」
 その眼で睨められた凄《すご》さ。この人の身の廻りには、魔物のように物を引く力がある。夢で怖《こわ》いものに追われたように、逃げようとすれば足がすくむ。
「うーむ」
 竜之助は、また額を押えて唸《うな》る、そのうなり声を聞くと地獄の底へ引き込まれそうです。
「ああ――」
 竜之助は、そろそろと面を上げて、
「これこれ女」
 思いのほか静かな声で、
「妙な気持にな
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