の前の小事から謀《はかりごと》が破れるわ」
「それもそうじゃ」
芹沢はしぶしぶと身を起し、
「とは言え、この女、油断がならぬ」
「お斬り捨てなさい」
こともなげに隣室《となり》から走る一語、お松の骨を刺す冷たさがある。
「斬り捨てるほどの代物《しろもの》でもない」
「然らば拙者が預かろう、貴殿は早く同志を沙汰《さた》して、ずいぶん抜かりのないように。なんにしても相手が相手だ」
「では、この女、しばし君に預ける」
「いかにも、預かり申す」
「大事に扱え、これはソノ、御雪が妹分じゃ、無茶なことをしてはならんぞ」
「ともかくも拙者が、よきように預かる」
「そうか」
芹沢は残り惜しそうな面《かお》をして、お松を隣室に抛《ほう》り込んで、自分はこの場を外《はず》して行く。
「これ女」
お松を預かった人は沈んだ声。
「はい」
「おまえは誰かに頼まれて、この隣室《となり》へ来たか」
「いいえ、誰にも頼まれたのではござんせぬ、席の騒がしいのに上気して、気を休めようと思いまして」
「何はしかれ、我々が密談の席へ近寄ったが不運じゃ、わしが赦《ゆる》すまで、ここにおれ」
「はい、決して一言《ひとこと》も、あなた様のお話を伺ったわけではありませぬ故、どうぞお赦し下さいませ」
「いかん、もしお前が声を立てたり、逃げ出そうとしたりすれば、不憫《ふびん》ながらお前を斬る。拙者がこの席を動くまでじっとしておれば、無事にゆるしてやる」
「はい」
この、お松を預かった人というのは、机竜之助です。お松のためにも兵馬のためにも仇《かたき》たる机竜之助が、芹沢鴨一派の頼みで、これから近藤勇一派を暗殺しようと、その合図が整うて、ここに来合わせたもの。机竜之助は、薄暗い行燈《あんどん》の火影《ほかげ》を斜めに蒼白《あおじろ》い面《おもて》に浴びて、小肴《こざかな》を前にチビリチビリと酒を飲んでいます。
お松を前に置いて、縛るでもなければ嚇《おど》すでもなく、さりとて冗談《じょうだん》を一つ言うでもなく、竜之助はチビリチビリと酒を飲んでいる。時々酒の手を休めては、眼をつぶってじっと物を考え込む。
「うーむ」
考え込むと、深い吐息《といき》で、手に持つ猪口《ちょく》がフラフラと傾いて酒がこぼれそうになる。気がついてグッと呑んで、余滴《よてき》をたらたらと水の上に落して、それを見るともなく見つめて無言。
「動けば斬る」
このものすごい武士の唱えた呪文《じゅもん》で、お松は金縛《かなしば》りにされてしまった。酌《しゃく》をしろとも言わず、また一杯ついで静かに口のところへ持って行き、唇へ当てようとしたが、急に思い返したように猪口を下に置いて、
「うーむ」
と吐息。
右の手をあげて、頭を押えてうつむく。しばらくして、また屹《きっ》と頭を上げて、猪口をとり、お松の方をボンヤリと見た。
「お前は木津屋の娘じゃそうな」
「はい」
竜之助は一口飲むと急に咳《せき》をして酒を吐き出し、あわてて猪口を置いて、懐紙《かいし》で四方《あたり》を拭き廻す。
「あの、お武家様」
お松は一生懸命で口を切る。
「何だ」
「何も存じませぬのでございますから、どうか、お赦《ゆる》しあそばして」
「いかん」
「主人も心配しておりましょうし、何も知らないのでございますから」
竜之助は、軽く首を左右に振りて答えず。
さしも騒がしかった今宵の宴会も、存外早く片がついて、その大半は帰った様子。広間の方ではまだ相当の人声であるが、その半分の、人なき間毎《まごと》の寂しさは急に増した。
お松は、急になんだか身の毛が立つように覚えた。というのは、さいぜん芹沢につかまってからの怖ろしさと、黙って酒を飲んでいるこの怪しい武士の前にいる怖ろしさとは、怖ろしさが違う。
「この人は幽霊ではあるまいか」
とさえ思われたくらいで、席が静かになるにつれて行燈《あんどん》が薄暗くなる、その影で吐息をつきながら、一口飲んでは置き、唇まで持って行っては止め、首を垂れてみては、また屹《きっ》と刎《は》ね返し、座の一隅に向って眼を据《す》えるかと思えば、トロリとしてお松の面を見る。
その怖ろしさは、総身《そうみ》に水をかけられるようで、ゾクゾクしてたまらないくらいです。
「そ、そこへ来たのは誰だ」
竜之助は、お松の坐っている後ろの方へ眼をつけて突然こう言い出した。
「え、誰も……どなたも来ておいではございませぬ」
お松は、身を捻《ね》じむけて、後ろを顧みながら答える。
「そうか、それでよい」
竜之助はぐったりと首を垂れて、
「うーむ」
という吐息。
「あれ、幽霊が――」
お松は何に驚いたか――
「ナニ、幽霊?」
竜之助は勃然《ぼつねん》と、垂れた首を上げる。
「ああ、怖かった、今ここへ――」
「ナニ、今ここへ何が
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