った、お前に少し聞いてもらいたいことがあるがな」
「何でございましょう」
「いや、拙者も国を出てから長いことになるが、思い出せば子供が一人ある」
 なんという話頭《はなし》の変り方であろう。しかしその言葉には、なんとも言われぬ痛々しさがあります。
「お子様がおありなさる……」
「郁太郎と名をつけて男の児じゃ」
「はい」
「もし縁があって、お前がその男の児にめぐり会うような折もあらば、剣術をやるなと父が遺言《ゆいごん》した、こう申し伝えてもらいたい」
「そのお子様に、あなた様が御遺言……」
「そうだ、生前の遺言じゃ。拙者の家は代々剣術の家であったが、もう剣術をやめろと言ってもらいたいのじゃ」
「それは、どういうわけでござんしょう」
「別にわけはない」
 この不思議な人の言うこともすることも、いちいち、この世の人ではないようです。
「承知致しました。そのお子様は、お母さんと御一緒に今お国においでなさるのでございますか」
「いや、そうでない、母という奴、拙者には女房じゃ、それはいない」
「お母さんも、おなくなりなさいましたので?」
「うむ――俺が殺した」
「まあ、あなた様が手にかけて!」
「手にかけて殺した」
「なんという惨《むご》いこと……」
「芝の増上寺の松原で、松の樹へ縛っておいて、この刀で胸を突き透《とお》した」
 武蔵太郎を取り上げた机竜之助は、やにわに立ち上って、眼が吊り上る。
「あれ――危ない」
 立ち上った竜之助は、よろよろと足がよろめくのを踏み締めて、颯《さっ》と刀の鞘《さや》を外《はず》した。
「誰か来て下さい!」
 お松は、この時、はじめて絶叫することができた。
「騒ぐな!」
 武蔵太郎は閃々《せんせん》として、秋の水を潜る魚鱗《ぎょりん》のようにひらめく。
「あれ危ない、誰か来て下さい」
「騒ぐな!」
 竜之助は、刀を横より斜めに振って、切先が襖《ふすま》へ触れると、ハラリハラリ御簾《みす》の形はくずれる。
「お武家様が気が狂いなされた!」
 竜之助が、真に人を斬るつもりで刀を抜いたのならば、最初の一閃《いっせん》でお松の命はないはずであります――逃げ廻るお松の身に刃は触れないで、あらぬ方《かた》を見廻しつつ振りまわす切先は、襖、畳、柱のきらいなく当り散らして竜之助の足もとはよろよろ――まさしく気が狂ったものに違いない。
「やあ!」
 薄《うす》ボンヤリと光っていた罪のない行燈《あんどん》は、真向《まっこう》から斬りつけられ、燈火はメラメラと紙を嘗《な》める。竜之助は、行燈が倒れて、火皿の燈心が紙に燃えうつるのを見て、立ち止まって笑う。
 お松は、この間に逃げ出した。多くの人はお松の叫び声でバラバラとここへかけつける。
 竜之助は、襖にうつろうとする火の色を見て笑っています。

         十五

 その晩、芹沢鴨は早く宴会の席を出て壬生の屋敷に帰り、愛妾《あいしょう》のお梅を呼び寄せる。お梅というのは、さきごろ町家の女房を強奪して来たそれです。
 芹沢と一緒に帰ったのは、その腹心平間重助と平山五郎。
 芹沢が早く席を切り上げて帰ったのも珍らしいが、今宵は非常に機嫌がよくて、お梅を相手に飲み直していると、平間重助はその馴染《なじみ》なる輪違《わちがい》の糸里という遊女、平山五郎は桔梗屋《ききょうや》の小栄というのをつれ込んで、この三組の男女は、誰憚らぬ酒興中、芹沢は得意げに言うことには、
「いよいよ拙者の天下である、明日になって見ろ、わかることがある」
 こう言って、芹沢はお梅に酌をさせて頻《しき》りに飲んだ。
 芹沢はお梅を抱いて快く眠った。屏風《びょうぶ》を立て廻して同じ広間の中へ、平間と糸里、平山と小栄の二組も、床を展《の》べさせて夢に入る。芹沢が欣々《きんきん》としていたのは近藤を謀《はか》り得たと思ったからです。今宵の宴会の終りに近藤勇は、その馴染なる木津屋の御雪を呼ぶか、御雪のところへ行くか、然らずば晩《おそ》くこの屋敷へ帰る。その隙《すき》を見て多勢で暗討《やみう》ち。人の手配《てくばり》に抜かりなく、ことにその手利《てき》きの一人として机竜之助を頼んでおいた。明日になれば、首のない近藤勇の死骸を、島原|界隈《かいわい》で見つけることができる。そして新撰組の実権を自分の一手に握る、これを根拠としてやがて一国一城の望みを遂げようという。
 ところが、それよりズット前に、近藤勇は土方歳三と沖田総司と藤堂平助とをつれて、駕籠にも何にも乗らずコッソリ裏の方からこの屋敷へ帰って来て、いるかいないかわからないくらいの静かさでおのおの近藤の居間に集まっていたのを芹沢らはちっとも知らなかった。芹沢らがいよいよ寝込んでしまったと見定めた時に、近藤勇だけは平服、土方と沖田と藤堂の三人は用意の黒装束《くろしょう
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