うし》の刻《こく》、あんまり行《ゆ》く末《すえ》来《こ》し方《かた》のことが思われて、七兵衛待遠しさに眠れないので、お松は、かねて朋輩衆から聞いた引帯《ひきおび》の禁厭《まじない》のことを思い出した。それは、夜の丑の刻、屋根の上の火の見へ上って、待つ人の家の方に向い平縫の帯を投げかけて、自分はその端を持って、振向かずに火の見を下りて来る、その帯が物へひっかからず無事に自分の部屋まで来ることができれば、その待ち人は、きっと来るに違いないということ。
お松は、それをやってみようと心を決めて、そっと帯を出して、この部屋を忍んで、二階から火の見へ出てみました。
空は星が高く、葛野郡《かどのごおり》へ銀河が流れる。一二軒、長夜《ちょうや》の宴を張った揚屋の灯《ひ》も見えるが、そのほかは静かな朱雀野《すざくの》の夜の色。
火の見に立って、お松はその帯を投げかける何《いず》れかを見廻したけれども、七兵衛の宿というのを聞いておかなかったから、やはり出るにも入るにも大門の方。
別れてもまた会うという意味の引帯を、お松は朋輩から聞き覚えたように、大門の方に向って投げかけて、
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東路《あづまぢ》の道の果てなる常陸帯《ひたちおび》
かごとばかりも会はむとぞ思ふ
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この歌を口の中で唱えて、立っていると、サーッと、風の吹きつけたような物の音。中庭の木立が瓦に擦《す》れて鳴るかと思えば、猿のように屋根へ飛び上った人影。
お松はハッと身が竦《すく》む。その時、黒い人影は早や自分の前に立って、
「声を立てるな」
「許してください」
「おお、お前は――お松ではないか、お松坊」
「まあ、お前はおじさん」
待ち焦《こが》るる人はここに来た、けれどもあんまり突飛《とっぴ》です。夜の丑の刻に屋根伝いにここへ来るとは、お松の眼には、これも夢以上。
「よい所で会った。お松、お前に会おうと思って忍んで来たのだ」
「おじさん、今頃、どうしてこんなところへ」
「事情《わけ》を話せば長くなる、なにしろ、わしが身は急に忙《せわ》しくなった」
「忙しいとは?」
「わしは人に追っかけられてる、怖《こわ》い人がわしをつけ覘《ねら》っている、それでお前のところへも来られなかった、お前をつれて帰ることもできない、しばらくこのまま辛抱してくれ」
「おじさん、それでは、わたしを置いてどこぞへ」
「そうだ、これから直ぐに旅に出にゃならねえ。お前をつれると、お前のために悪いから、当分このままで辛抱してくれ」
「まあ、どうしたものでしょう、おじさん何か悪いことをなすったの」
「いや、あとでわかる、こうしている間も危ないのだ。そんならお松、ずいぶん身体を大事にしてな」
「わたしはどうしたらよいでしょう」
「ナニ、心配するな。親方にも太夫さんにもよろしく……だが、わしが来たとは決して誰にも言うではないぞ、お役人のようなのが来ても黙っていなさい。あの身受けの金は、持っているが今は出せない……」
通りで夜番の音がする。
「お松、よいか。ナニ、近いうちきっと来る」
こう言って、七兵衛は屋根と屋根とを蝗《いなご》のように飛び越えて行ってしまいました。
十二
はじめて廓《くるわ》の大門を潜《くぐ》ってみた兵馬の眼には、見る物、聞く物、みな異様の感じです。井村、溝部らは、揚々と行くにひきかえて、兵馬は、一足進むごとに息がつまりそうに思う。ついには堪《こら》えられなくなって引返そうとしたが、我慢《がまん》して、そのあとをついて行くと角屋《すみや》へ入る。
「壬生じゃ、壬生から来た」
「ようお越しやす」
仲居は、直ぐに迎えに出たが、いい顔をしなかった。
井村、溝部は刀を提げたまま、横柄《おうへい》に座敷へ通る。揚屋へは刀禁制であるが、壬生といえば刀のまま上る。井村は、大胡坐《おおあぐら》をかいて、酒を命じ、芸子《げいこ》と太夫《たゆう》を呼びにやる。
命を奉じて仲居は出て行ったけれども、暫く姿を見せず、実は蔭でおぞけ[#「おぞけ」に傍点]を振い、なるべくこの連中の座へは遠のいているわけです。
井村と溝部とは、盛んに呑む。兵馬は少し離れて、二人の様子を見ながら坐っていると、よその座敷で頻《しき》りに三味や歌の声、時々、調子はずれの詩吟が交《まじ》る。
この時、井村はわざとらしく眉をひそめて、
「喧《やかま》しい国侍《くにざむらい》ども、殺風景《さっぷうけい》な歌ばかり歌いおるわ……そもそも、島原の投節《なげぶし》、新町のまがき節、江戸の継節《つぎぶし》、これを三都の三名物という。今時《いまどき》は投節を面白く歌うて聞かせる芸子もなければ、それを聞いて欣《よろこ》ぶ客もない。あんなガサツな流行唄《はやりうた》や、突拍子《とっぴょ
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