の余沫《とばしり》を冷やかに壮士の面《かお》に投げる。壮士も剛胆なもので、従容自若《しょうようじじゃく》として懐中から紙を取り出して、
「後日のために一札《いっさつ》を立て置きたい、筆はないか」
 竜之助は黙って、矢立を出して壮士に授けます。筆の尖《さき》を口で噛んで、壮士は紙に大きく書き出したのは、
[#ここから4字下げ、罫囲み]
仲裁無用
果し合い
[#ここで字下げ、罫囲み終わり]
 味なことをやる。
 なんにしても、ここは往還に近い。刃《やいば》の音を聞いて駈けつける者のなかには、よけいなお節介《せっかい》が飛び出さんとも限らぬ、この札を立てて、あらかじめ予防線を引いて、一方が一方を片附けるか、双方ともに仆《たお》れるかまで、無名の師《いくさ》をやり通そうという準備であろう。とにかく物慣れた仕業《しわざ》である。
 竜之助は冷然として、その書き終るを見ていると、壮士はその紙を持って前後を見廻したが、傍《かたえ》に大きな松の樹がある、小柄《こづか》を抜いてその一端を突きさして、あとの隅《すみ》を克明《こくめい》に松脂《まつやに》で押える。
「いざ、お仕度《したく》召されい」
「心得て候」
 壮士は、刀の下緒《さげお》を襷《たすき》にする。竜之助は笠を取って、これも同じく刀の下緒が襷になります。
 驚くべき長い刀の鞘を払って、上段にとって、曳《えい》と叫ぶ、ずいぶん大きな声です。熟練した立合ぶりです。その技倆の程はまだ知らないが、立ち上って、まず大抵の人の荒胆も挫《ひし》ぐというやり方。なにしろ真剣の立合を茶飯のように心得たものでなければ、こうはいかないはずであります。
 一方、竜之助は同じく抜き放って、これは気合もなく恫喝《どうかつ》もなく、縦一文字に引いた一流の太刀筋、久しぶりで「音無しの構え」を見た。無名の師《いくさ》、尋常の果し合いはなかなか骨が折れる、まして敵の様子が海の物とも山の物ともわからない場合において、得意の構えに身を守り敵を窺《うかが》う瞬間は、いずれも気が張るのです。
 焦《せ》き込みもせず……無言のままで青眼にとった刀。こっちが嚇《おど》しても手答えがない、叫んでも反応がない……自ら薩州の浪人と名乗る壮士は竜之助の太刀ぶりに、やや意外の念を催します。
 道具をつけての稽古ならば、体当りで微塵《みじん》に敵の陣形をくずしてみたり、一《いち》か八《ばち》かの初太刀《しょだち》を入れてみる。当れば血を吸い骨を啖《くら》うことを好む刃《やいば》と刃とでは、そうはいかない。
 壮士は上段の刀を振りかぶったなりで、頻《しき》りに気合と恫喝とを試みて竜之助の陣形を覗《うかご》うているが、その静かなること林の如く、冷やかなること水の如しです。打ち込んだら、こっちのどこかへ来る。それがどこへ来るか、さっぱり見当《けんとう》がつかぬ、浅く来るか深く来るかさえ見当がわからないのです。
 時節がら人の通りが少ないといっても、名にし負う京と大阪とへの追分に近いところ、
「あれ、喧嘩《けんか》があるそうな」
「武家と武家との争闘《いさかい》じゃ」
「おお、抜きましたぜ」
「抜いた、抜いた」
「長い刀やな」
「あれ、危ない」
 気の弱いものには、真剣勝負は見ていられない、袖で面《おもて》を蔽《おお》うて急いで通り去るのが尋常の人です。怖いもの見たさの連中のみ遠巻きにして――それとても息を凝《こ》らして、片足は逃げられるように、スワというとき腰を抜かさずに走れるだけの胆力を持ったものに限るのです。
 白昼、白刃《しらは》の立合は、おそらく凄いものの頂上でありましょう。月にかがやく刃《やいば》の色、星にきらめく兜《かぶと》の光などは、殺気を包むに充分の景情があります。ここには、人と人との血気、剣と剣との殺気、それが全くむきだしに、青天白日、八百万《やおよろず》の神の照覧ましますところにおいて行わるるのであります。ことに、竜之助を知って、その面《かお》の刻々の変化――変化と見えざる変化を見分ける人があるならば、何者とも知れず、来《きた》って八万四千の毛孔を揺《ゆす》って行くとや疑うであろう。
 この立合をながめていたもののなかに、一人の物好きがあります。最初は抜からぬ顔で人の後ろに立っていたが、ジリジリと一足前へ、二足前へ、余の連中が一寸二寸と後ろへさがる間に、この男のみは知らず知らず前へ出て行くので、水が流れて岩がおのずから進むように見えます。
「仲裁無用」かの松の樹の貼札《はりふだ》の下まで来て突っ立って、じっとこの果し合いを見ている。脚絆《きゃはん》足袋《たび》草鞋《わらじ》、菅笠《すげがさ》は背中に、武士ではないがマンザラ町人でもない――手に四尺五寸ほどある樫《かし》で出来た金剛杖《こんごうづえ》まがいのものをついていました。

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