世間には、さまざまの変人がある、好んで危《あやう》きに近寄るは変人のなかの愚《ぐ》なる者。
壮士の額にはようやく汗が滲《にじ》んできた、それと共に気がジリジリと焦《じ》れ出すのがわかります。この時、竜之助の足許《あしもと》がこころもち進む。
壮士の踵《かかと》がこころもち退く。上段の太刀をおもむろに下ろして、中段に直します。
「構えの如何《いかん》に頓着《とんちゃく》せず、立合うや直ちに手の内に切り込み、そのまま腹部をめがけて突き行けば必ず勝つ」とは、千葉の道場などでよく教えた立合の秘訣《ひけつ》で、機先を制して勝ちを咄嗟《とっさ》にきめるか、さもなければ、塁を高くして持久戦の覚悟をきめ、そうして後に根気で勝つ。壮士は最初の法をとって、勝ちを一気に占める考えであったが、その術を施す隙《すき》がなかったので、やむを得ず、相方ともに楯《たて》をついての睨み合いです。
関東の剣客で、その立合った限りにおいては、竜之助の音無しの構えを破り得るものがなかったのです。かの壮士は図《はか》らずもその術にひっかかったものです。降りみ降らずみ五月雨《さみだれ》の空が、十日も二十日も続く時は、大抵の人が癇癪《かんしゃく》を起します。鬱陶《うっとう》しい、忌々《いまいま》しい、さりとて雷が鳴るまでは、どうにもならぬのが竜之助の剣術ぶりです。壮士の癇癪はついに雷となって破裂した。
「やあ!」
切り込んだ初太刀《しょだち》。
その出る頭《かしら》こそ音無し流のねらいどころです。
どちらが斬ったか斬られたか、刀と刀は火花を散らして、一合《いちごう》すれば、両人の身は四五間離れて飛びます。どちらにも怪我《けが》はなかった。透《すか》さず壮士は再び上段の構えでジリジリと寄る。竜之助はもとの如く、双方ともに以前の形をとって進むだけです。
この一合した時に、立っていた怖《こわ》いもの見たさの連中は、
「わっ!」
とわめいて、横になり縦になって、遠いのは一町、近いので五十間も転《ころ》げ出したが、双方ともに傷つかず、また陣形を立て直したのを見てソロソロと舞い戻る。
棒を杖《つ》いた商人|体《てい》の不思議な人物のみは、自分が検査役かの如き気取りで、平然としてもとの立場を動かず、そのくせ、両陣の争いはいよいよその身に近くなってきています。
壮士も、胆気一方の人ではない、術も充分である、相撲《すもう》ならば四ツに組んだので、水を入れ手がない以上は、取り疲れて、死ぬまで組む。力限りの争いかと見れば、意外にも今度は、目に見えないほどずつ竜之助の太刀先が進む。進み、進むと、壮士は脂汗《あぶらあせ》をタラタラと、再び中段にしてジリジリと退く。その退くこと五分なれば、竜之助の進むことも五分、一寸なれば一寸。
音もなく飛んだ刀は壮士の小鬢《こびん》をかすめて、再び刃の音の立つ時、壮士は鳥の如く後ろへ飛び退《さが》る、竜之助は透《すか》さずそれを追いかける、受けて、また後ろへ飛ぶ途端に、無残や大の男は、石に躓《つまず》いて※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》と横ざまに倒れる――この時まで壮士は足駄《あしだ》を穿いていたものです。倒れたものを、起しも立てず拝み討ち――誰が見ても、この運命はもうきまった、倒れたのが斬られる、倒れないのが斬る(事実は必ずしもそうであるまいが)――その決勝点で邪魔が入ったというのは、かの棒を持っていた変人が、
「待った!」
りゅうりゅうと片手で振った樫《かし》の棒に、仲裁無用の定規《おきて》を破らせたことであります。
五
竜之助と、薩州の壮士と、棒を持った変人と、三人の姿を山科《やましな》の奴茶屋《やっこぢゃや》の一間で見ることができました。三人まるくなって、酒を酌《く》みかわしながら、薩州の壮士|曰《いわ》く、
「不思議な流儀もあったもんじゃ、えたいが知れん、俺も一刀流の道場はたんと廻ってみたがな」
棒を持った変人は竜之助に代って、
「うむ、この人の剣術は一流じゃ、てこずらぬ者は珍らしいよ、関東の剣術仲間では音無しと名を取ったものでござる」
「なるほど音無し、音無しに違いはない、なんにしても珍らしい、関東には変ったのがある、ハハハハ」
高く笑う。
「西国にもずいぶん変ったのがござるようじゃ、貴殿のお差料《さしりょう》などもその一つ」
「うむ、これか」
壮士は、座右の長い刀を今更めかしく取り上げて、
「主水正正清《もんどのしょうまさきよ》じゃ」
「拝見致す」
型の如く鞘《さや》を払って、つくづくと見る、相州伝の骨法《こっぽう》を正確に伝えた薩摩鍛冶の名物。竜之助もまた傍からじっと見て、
「なるほど」
「国の習いで、抜けば鞘を叩き割るのが、血を見ずに鞘へ納まったは今日が初め、まあ仲裁ぶ
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