るは何故《なぜ》であろう。わけのわからない話であるが、竜之助は、このことを苦にする。
 大和国八木の宿。
 東は桜井より初瀬にいたる街道、南は岡寺、高取、吉野等への道すじ、西は高田より竹の内、当麻《たいま》への街道、北は田原本《たわらもと》より奈良|郡山《こおりやま》へ、四方十字の要路で、町の真中に札の辻がある。
 竜之助は西から来て、この札の辻の前へ立った――この札の辻の傍《かたわら》には大きな井戸があって、四方《あたり》には宿屋が軒を並べている。さしも客を争う宿引《やどひき》も、ナゼか竜之助の姿を見てはあまり呼び留めようともしない、これはまだ日脚《ひあし》の高いせいばかりではあるまい。竜之助は仰いで高札《こうさつ》を見る。
[#ここから1字下げ]
  「檄《げき》
此回《このたび》外夷御親征のため、不日南都へ行幸の上御軍議あるべきにつき、その節御召に応じて忠義を励むべき……」
[#ここで字下げ終わり]
 これが書出しで、本文は大分長い。竜之助は読み下してみると、それは御親征について忠勇の士を募集するという檄文《げきぶん》で、誰が出したともわからないが、ただ「天忠組」とのみ署名してあります。竜之助はそれを読むには読んだが腹がすいています。当時の志士の血を湧かした尊王とか攘夷とかいうことはあまり竜之助には響かない。この時は、また例の事を好む壮士どもが、悪戯《いたずら》をしたとぐらいに考えて、それよりは腹の減ったことが、著《いちじる》しくこたえてきます。
 どこぞで飯を食おう。しかし懐中《ふところ》が甚だ淋しい――立派な飯屋へは入れない。何か食わねばならん。町を少し行くと饅頭屋。黒崎というところから出た名代《なだい》の女夫饅頭《めおとまんじゅう》、「黒崎といへども白き肌と肌、合せて味《うま》い女夫まんぢゆう」と狂歌が看板に書いて出してある、この店へ入って行った竜之助。
 蒸籠《せいろう》を下ろして、蒸したてのホヤホヤと煙の立つのを、餓《う》えた腹で見た竜之助は、飛びついて頬ばりたいほどに思う。ああ、さもしい! 自分ながら抑《おさ》えていたのは束《つか》の間《ま》、黒い盆の上に山と盛って出された時、夢中でその盆を平げてまた一盆。渋茶の茶碗を下に置いて、
「亭主、いくらになる」
「へえ、有難うござります、百と五十いただきます」
 百五十と言われて竜之助はハタと当惑する、懐ろへ手を入れてはみたが実は百二十文しかない。
「亭主、まことに相済まんが」
 竜之助は財布を逆《さか》さにして、
「持ち合せが、これだけしかない、百二十文――」
「何でございますと」
 饅頭屋の亭主は、少しく眼の色を変える。
 竜之助が、もう少し如才《じょさい》なく詫《わ》びをしたら、或いはそれで負けてもらえたかも知れぬ、またこの店の亭主が、もう少し情けを知った人ならば、それで我慢《がまん》したかも知れぬ、しかしながら、竜之助は誰に向ってもするように、ない袖は振れぬ、ないものは払えぬというのが不貞《ふて》くされのようにも取れば取れるので、勘定高い亭主が承知しない。
「なんと言っても、ないものはないのだ」
 竜之助は、ツンと言い切る。この場になっても竜之助には、これ以上のことは言えない。頭をたたいて哀求《あいきゅう》するなどということは、どうしたってできないのです。
「よろしゅうございます、左様ならば出る所へお出なさい」
 亭主は襷《たすき》をはずして、どこへか行こうとする。
「待て、主人、どこへ行く」
 竜之助は呼び止めると、
「このごろは諸国の浪人や無頼漢《ならずもの》が入り込んで、商売人泣かせを働いて困るじゃ、見せしめのため、お代官へ行き申す」
「待ってくれ」
 竜之助はこの時、腰に差していた刀を鞘のまま抜き取って、亭主の前に置き、
「では此刀《これ》を取ってくれ」
「この刀を?」
「うむ、僅か三十文の銭のために縄目《なわめ》の恥にかかるのはいやじゃ、この一腰《ひとこし》を抵当《かた》にとってくれ」
「へえ、左様でございますか」
 三十文の抵当に刀一本。たとえどんな鈍刀《なまくら》にしろ引合わぬということはない。亭主の機嫌が少し直り、
「どうも、町人には不似合いなものでございますが、では、一時それをお預かり申しておきましょう」
 竜之助は、その刀をそこに置いて、財布も小銭も置き放し、笠一つを持って、ふいとこの店を出てしまいます。
「いやどうも、このごろは悪い奴が近辺へ入り込むので。なに、わずか三十文のところを手厳《てきび》しく言うでもないが、いくら饅頭屋《まんじゅうや》だからというて、甘くばかり見せておられぬわい」
 この店を出た机竜之助、田原本の街道を取って北へと歩いて行く。竜之助が最初の目的ならば、東をめざすが順であろうに。

         十七

 と
前へ 次へ
全31ページ中29ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング