会津侯へは、昨夜盗賊が入って、そのために芹沢が殺されたと届けた。これも滑稽な話で、新撰組の屯所《とんしょ》へ入る盗賊があると思うのも、あったと届けるのも、共に虫のよい骨頂《こっちょう》であるが、表面はそれで通った。
 新撰組の内訌《ないこう》もこれで片がついて、芹沢の子分は二三人、姿をくらました者もあった。勘定方の平間重助なども逃げてしまったが、大体は大した変りなく、その全権は近藤勇の手に帰《き》して、土方歳三はその副将となる。近藤勇が京の地を震《ふる》わすのはこれから。

         十六

 夜明《よあ》け烏《がらす》の声と暁の風とで、ふと気がついた机竜之助は、自分の身が、とある小川の流れに近く、篠藪《ささやぶ》の中に横たわっていることを知った。それでも刀だけは手から離さず、着物は破れ裂けて、土足には突傷かすり傷。
「ああ」
 起き返ろうとしたが節々《ふしぶし》が痛い、じっとしていれば昏々《こんこん》として眠くなる、小川の縁《ふち》へのた[#「のた」に傍点]って行って水を一口飲んで、やっと気が定まる。
 どうして、こんなところへ。ああ、あれからあれ、あれまでは確かであった。あれから刀を抜いて……さてあの小女《こおんな》はどうした。間毎間毎を荒《あば》れ廻って、そうして庭へ下りた、大勢に囲まれた、幾人か切ったに相違ない、血もついている、それから鉄砲という声が聞えたようだ、それを聞くと庭の大きな松の樹にかけ上った、飛び下りたのは内か外か、それから闇を駈けて駈け廻った――竜之助は今や正気に復して、昨夜来のことを朧《おぼ》ろに辿《たど》って行ってみると、さあ、芹沢との約束だ!
 遅い、遅い、もう夜明けだ、芹沢との合図はまるで滅茶滅茶。
「やむを得ん、是非がない」
 竜之助は呟《つぶや》いた。ともかくも夜の明けぬうちに何とかせねば――幸い、ここは人目に遠いところではあるけれど、このなり[#「なり」に傍点]ではどこへも行けない。
 向うから人が来るようだ。
 この篠藪《ささやぶ》の裏は堤《どて》、それを伝うて人の草履《ぞうり》の音が聞える。
 竜之助は、その人を待っている。
 その人は提灯を持っていたけれども、夜明け間近の空で灯《ひ》は入れていなかった。
「もし」
 竜之助は篠藪をかき分けて、のたり出ながら言葉をかける。
「はい」
 通る人の声は慄《ふる》える。
「突然ながら……」
「はい……はい」
 立ち止まった人は股《また》をふるわす。
「道に迷うた者でござるが」
 竜之助の姿を見た通りがかりの人はベタリ地面へ坐ってしまい、
「はい、どうぞ命ばかりはお助けを願いまする」
 空提灯《からぢょうちん》を投げ出した。
「いや、拙者は悪者ではない」
「ど、どうぞ、お助け、倅《せがれ》が急病でお医者様へ参るのでござります」
「これ、思い違いを致すな」
「持ち合せは、これだけ、これを差上げまする、命ばかりは、命ばかりは」
 縞《しま》の財布を懐ろから出して、竜之助の前に置くや、後ろへ躄《いざ》るように退《さが》ると、土手から田圃《たんぼ》へ転げ落ちる、転げ落ちると共に田圃中を一目散《いちもくさん》に逃げ出した。
「思い違いをしたと見える、粗忽《そそっ》かしい奴だ」
 竜之助は苦笑いをして、そこに投げ出されてあった財布に眼がとまる。彼は、やや躊躇《ちゅうちょ》して、それを拾い上げる、銭の重味はザックリとして手答えがある。
 竜之助も今まで善いことばかりはしていない。しかし人の金銭《もの》に手をかけたのはこれが初めです。

 河内《かわち》の方から脱《ぬ》けて来た机竜之助、トボトボとして大和国《やまとのくに》八木の宿《しゅく》へ入ろうとして、疲れた足を休める。
 大和は古蹟と名所の国。行手を見れば、多武《とう》の峰《みね》、初瀬山《はつせやま》。歴史にも、風流にも、思い出の多い山々が屏風のように囲んでいる。竜之助はいま突いて来た竹の杖を道端に立てて歩みを止めたが――彼の姿を見れば大分変っている。
 川勝《かわかつ》の寺の堤《どて》で、賊と見誤られて財布を投げ出して行かれた、心にもなくそれに手をかけてみると、人を嚇《おど》すことの容易《たやす》いのに呆《あき》れる。竜之助は、ついついそこに待ち構えて、も一人、通行の人を嚇して着物を剥《は》ぎ取った、いま身に纏《まと》うている縞《しま》の袷《あわせ》がそれです。
 差しているのはただ一本の刀。
 笠をかぶって、右の風体《ふうてい》で大和路を歩いて行く。誰が見ても渡り者の長脇差、そのくらいにしか見えない。
 かの財布の中の金は、ここへ来るまでに大方尽きた。
 人の命を取ることと、人の財布を盗《と》ることといずれが重い――人を斬ることをなんとも思わぬ竜之助が、人の金銭をとったことに苦悶《くもん》す
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