ころへ、田原本の方から早足に歩いてくる旅人。それは裏宿の七兵衛であったが、摺《す》れちがって竜之助の方で、それと気のつかなかったのは無理もないが、七兵衛の方で竜之助に気のつかなかったのは、竜之助が小荷駄《こにだ》の馬の蔭に見えがくれであったのと、一つには無腰《むこし》であったから、刀を差して歩く人のみをめざした七兵衛の眼を外《はず》れたものと見えます。
 八木の宿へ入った七兵衛が、何心なく寄り込んだは偶然にもかの女夫餅《めおともち》。
「御免よ」
「はい、おいでなさいまし」
 七兵衛が腰をかけたのは、竜之助が置いて行った刀の直ぐ近い所でした。
「ここに怖《おっ》かないものがある」
 七兵衛は饅頭を食いながら、さきほど竜之助が置いて行った刀を少し横の方に避けると、亭主は、
「お客様、その刀をお買いなすって下さいませぬか」
「わしに買えと言わしゃるか」
「へえ、たった今、食い逃げの抵当《かた》に取った代物《しろもの》でござります」
「なるほど」
 七兵衛は、手をのばして刀をこっちへ引き寄せる。七兵衛もちょっとした刀の鑑定《めきき》ぐらいはできる男であったから、
「拝見してもよいかな」
「へえ、御遠慮なく」
「なるほど」
 七兵衛はこの刀を抜いて、しばらく眺めていましたが、
「はてな」
 首を捻《ひね》って、
「親方、目釘《めくぎ》を外してもいいかね」
「どうか、よくお調べなすって」
 七兵衛は目釘を外して、柄《つか》を取払い、その切ってある銘《めい》を調べて見ると、
「武蔵太郎安国――待てよ、こいつはおかしいぞ」
 七兵衛は思う、備前物や相州物の類《たぐい》であらば、この辺を通る人でも差して歩くに不思議はないが、あまり知られていない武蔵太郎あたりを、この辺で差して歩く人があったとは思いがけない。
「親方、この刀を差していた人というのは、どんな風《なり》をした人だったかね」
「左様でございます、破落戸《ならずもの》か、賭博打《ばくちうち》のような人体《にんてい》でもあり、口の利き方はお武家でございました、大方、浪人の食詰め者でございましょう」
 七兵衛は、さっきから思い当ることがあるから、刀を見つめながら主人に問う、
「年の頃は?」
「左様、三十四五」
「面《かお》つきは?」
「月代《さかやき》が生えて、色が蒼白くて、眼が長く切れて」
「それだ!」
 七兵衛は、その人を尋ねんとしてこれまで来たのです。
「その人はどっちへ行った」
「さあ、ちとばかり前、あちらの方へ、田原本の方へ行きました」
「田原本へ――」
 七兵衛は忙《せわ》しく懐中へ手を入れて、
「親方、いくらになる」
「お客様、その刀もお買い下さいますか」
「買おう、売ってもらいましょう」
「饅頭の方が八十文いただきます、刀はちと価《ね》が張ります」
「いくらで売る」
「はい、五両、ちとお高うございますが、仕込みが安くございませんから、へえ」
 七兵衛は、黙って五両と一分をそこへ抛《ほう》り出して、その刀を抱《かか》えてこの店を飛び出しました。

 長谷寺《はせでら》の一の鳥居。机竜之助はそこへ立ち止まって、
「これこれ、巡礼衆」
「はい、私どもに御用でございますか」
「ちと、物をたずねたいが、あの長谷の観音の籠堂《こもりどう》と申すのは、誰が行っても差支えないか」
「ええええ、差支えのある段ではございませぬ、人の世で見放されたものをも、お拾いなさるのが観音様の御利益《ごりやく》でござります」
「左様か、忝《かたじ》けない」
 僻《ひが》んで取れば、この巡礼の返答ぶりも癪《しゃく》にさわる。おれの今日《こんにち》の運命は自ら求めたもので、おれは落魄《おちぶ》れても気儘《きまま》の道を歩いているのだ、まだ神仏におすがり申して後生《ごしょう》願うような心は起さぬ。竜之助の心には、充分の我慢が根を張っているけれども、差向き今の身に宿を貸してくれるところは、神社仏閣の廂《ひさし》の下のほかにはありそうもない。それで、いま通りかかる巡礼に長谷の観音の籠堂を聞いてみたのであります。
 夕暮の色は、奥の院から下りて来る。黒崎、出雲《いずも》村の方は夕煙が霞のようになって、宿に迷う初瀬詣《はつせまい》りの笠が、水の中の海月《くらげ》のように浮動する。聞かでただあらましものを今日の日も、初瀬の寺の入相《いりあい》の鐘は、今し九十九間の階廊《かいろう》を下りて、竜之助の身にも哀れを囁《ささや》く。
 わが子を縁から蹴落《けおと》し出家入道を遂《と》げた西行法師《さいぎょうほうし》が、旧愛の妻にめぐり会ったという長谷寺の籠堂《こもりどう》。竜之助はともかくもここで夜を明かそうとして、その南の柱の下に来ました。



底本:「大菩薩峠1」ちくま文庫、筑摩書房
   1994(平成6)年12月4日第1
前へ 次へ
全31ページ中30ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング