た九重の亡魂《なきたま》でなければ、竜之助の身の中から湧いて出る悪気《あっき》。
この「御簾の間」は、時としてどこからともなく風が吹いて来る。
その風がしゅうしゅうとして梁《はり》を渡り、或るところまで来てハタと止まると、いかにも悲しい歔欷《すすりなき》の声が続く。
誰も、そんなものを聞いたものもないくせに、そんな噂をする者はある、ホントにそれを聞いた人は、命を取られるのだという。お松は今それを聞いた――と自分ではそう信じてしまったらしいのです。
竜之助は手が戦《おのの》いて猪口を取落した。
その取落した猪口を拾い取ると、何と思ったか、力を極めて、それを室の巽《たつみ》の柱の方向をめがけて発止《はっし》と投げつける。猪口はガッチと砕けて夜の嵐に鳴滝《なるたき》のしぶきが散るようです。
と見れば、竜之助の眼の色が変っている。
竜之助の眼の色は、真珠を水に沈めたような色です。水が澄む時は冴《さ》える、水が濁る時は曇る。冴える時も曇る時も共に沈んだ光があった。今はその光が浮いて来た。
猪口の砕けて飛んだ室の中を、ここと目当のなく見廻した時の眼は、かの音無しの構えにとって意地悪く相手を見据えた時のような落書きがなく、不安と、そうして散漫とがようやく行き渡る。
「うむ――」
額を押えて力なく折れた。
「どうかなさいましたか」
「頭が痛い」
「それは困りました」
「眼が廻る」
「お薬を差上げましょう」
お松はふいと立った。
「いや、それには及ばん」
「それでは、お冷水《ひや》を」
「何も要《い》らん」
竜之助は額を押えて薬も水も謝絶《ことわ》る。しかしながらよほどの苦しみには、うつむいた面《かお》が下るばかりです。
お松は、この時ふいと気がついた、逃げるならこの間《ま》である――
「待て!」
うつむいた面がバネのように上ると、竜之助は刀を取っていた。
「逃げるか!」
「いいえ」
「そこへ坐れ」
その眼で睨められた凄《すご》さ。この人の身の廻りには、魔物のように物を引く力がある。夢で怖《こわ》いものに追われたように、逃げようとすれば足がすくむ。
「うーむ」
竜之助は、また額を押えて唸《うな》る、そのうなり声を聞くと地獄の底へ引き込まれそうです。
「ああ――」
竜之助は、そろそろと面を上げて、
「これこれ女」
思いのほか静かな声で、
「妙な気持にな
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