「動けば斬る」
 このものすごい武士の唱えた呪文《じゅもん》で、お松は金縛《かなしば》りにされてしまった。酌《しゃく》をしろとも言わず、また一杯ついで静かに口のところへ持って行き、唇へ当てようとしたが、急に思い返したように猪口を下に置いて、
「うーむ」
と吐息。
 右の手をあげて、頭を押えてうつむく。しばらくして、また屹《きっ》と頭を上げて、猪口をとり、お松の方をボンヤリと見た。
「お前は木津屋の娘じゃそうな」
「はい」
 竜之助は一口飲むと急に咳《せき》をして酒を吐き出し、あわてて猪口を置いて、懐紙《かいし》で四方《あたり》を拭き廻す。
「あの、お武家様」
 お松は一生懸命で口を切る。
「何だ」
「何も存じませぬのでございますから、どうか、お赦《ゆる》しあそばして」
「いかん」
「主人も心配しておりましょうし、何も知らないのでございますから」
 竜之助は、軽く首を左右に振りて答えず。
 さしも騒がしかった今宵の宴会も、存外早く片がついて、その大半は帰った様子。広間の方ではまだ相当の人声であるが、その半分の、人なき間毎《まごと》の寂しさは急に増した。
 お松は、急になんだか身の毛が立つように覚えた。というのは、さいぜん芹沢につかまってからの怖ろしさと、黙って酒を飲んでいるこの怪しい武士の前にいる怖ろしさとは、怖ろしさが違う。
「この人は幽霊ではあるまいか」
とさえ思われたくらいで、席が静かになるにつれて行燈《あんどん》が薄暗くなる、その影で吐息をつきながら、一口飲んでは置き、唇まで持って行っては止め、首を垂れてみては、また屹《きっ》と刎《は》ね返し、座の一隅に向って眼を据《す》えるかと思えば、トロリとしてお松の面を見る。
 その怖ろしさは、総身《そうみ》に水をかけられるようで、ゾクゾクしてたまらないくらいです。
「そ、そこへ来たのは誰だ」
 竜之助は、お松の坐っている後ろの方へ眼をつけて突然こう言い出した。
「え、誰も……どなたも来ておいではございませぬ」
 お松は、身を捻《ね》じむけて、後ろを顧みながら答える。
「そうか、それでよい」
 竜之助はぐったりと首を垂れて、
「うーむ」
という吐息。
「あれ、幽霊が――」
 お松は何に驚いたか――
「ナニ、幽霊?」
 竜之助は勃然《ぼつねん》と、垂れた首を上げる。
「ああ、怖かった、今ここへ――」
「ナニ、今ここへ何が
前へ 次へ
全61ページ中48ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング