蔵の前まで来ました。地蔵へ心ばかりの賽銭《さいせん》を投げ、引返して表へ出ると例の南部屋敷の前。
「誰の邸だろう、大名にすればたしかに十万石以上」
壬生の村は、もう暗くなる。機《はた》を織る筬《おさ》の音が、この乱世に太平の響きをさせる。知らず知らず綾小路《あやこうじ》を廻って見れば、田圃の中には島原の灯《ひ》が靄《もや》を赤く焼いている。お松はあの中で何を思っているだろうと、七兵衛もそぞろ物の哀れを感ずるのであります。
七兵衛は、いま壬生の南部屋敷から程遠からぬところの、とある一ぜん飯屋で飲んでいる。
「親方、いい酒だな」
「へえへえ」
「この鰻《うなぎ》は、どこでとれるのかね」
「それは若狭鰻《わかさうなぎ》でございます」
「これも、なかなかうまいね」
「へえ、なるたけいい物を売らんと、御近所が喧《やかま》しゅうございます」
「なるほど、御近所にはだいぶ宏大なお邸があるようだ、お出入りがきついから、品もごまかしが利《き》かないのだね」
「まあ左様なわけでござりまする」
酒もよいし、鰻もよいから七兵衛も、陶々《とろとろ》とよい気持になって主人と話し込んでゆく。
「お客様はなんでございますかい、お地蔵様へ御参詣《ごさんけい》で」
「左様、今お地蔵様へ参詣して帰りがけさ」
「今年は、どうですか、お地蔵様もこの分では狂言がお流れになりそうで」
「狂言とは何だね」
「ナニその、壬生狂言と申しましてな、近いうち面揃《めんぞろ》えがござりまする。当年は、この通り乱世でございますから、どうなることでございますか」
「なるほど壬生狂言とやら、国でも名前だけは聞いていましたが」
「なかなか風《ふう》が変って、面白いものでございますよ。お客様、永逗留《ながとうりゅう》でございましたら、ぜひ見て行かしませ」
「それは話の種に見物がしておきたいものだ」
「それからな、あの島原という傾城町《けいせいまち》に一年一度の太夫道中がありますで、これがまた、大した見物《みもの》でございます」
「なるほど、なるほど。花魁《おいらん》の道中は、わしも一度、江戸の吉原で見ましたっけ。こちらのは、また変った趣向でもありますかな」
「ナニ、同じようなもので。わしどもは江戸のは錦絵《にしきえ》で見ましたが、あちらの方が何を申しても規模は大きいには大きいことでござりましょうが、道中の本家はやはりこの島原だ
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