てしまいます。
 島原が秀吉から許された天正十七年は、江戸の吉原《よしわら》が徳川から許された元和《げんな》三年より三十年の昔になる。大阪の新町も、その創立を元和から寛永の頃とすれば、いずれにしても島原より弟であり妹である勘定《かんじょう》になります。
 そうして、柳町から六条へ移り、「新屋敷」の名が「三筋町《みすじまち》」となり、三転して今の朱雀《すざく》へ移って、「島原」の名を得たのが、寛永十八年ということで。
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「去《さ》んぬる頃より一つ合せて、七条|西朱雀《にしすざく》、丹波街道の北に島原とて、肥前|天草一揆《あまくさいっき》のとりこもりし島原の城の如く、三方はふさがりて、一方に口ある故に、斯様には名《なづ》け侍《はべ》り」(浮世物語)
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 都名所図絵《みやこめいしょずえ》には、
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「また寛永十八年に今の朱雀野へ移さる、島原と号《なづ》くることは、その昔、肥前の島原に天草四郎といふもの一揆を起し動乱に及ぶ時、この里も此処《ここ》に移され騒がしかりければ、世の人、島原と異名をつけしより、遂に此処の名とせり」
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 切支丹《きりしたん》禁制の記念が、遊女町の名によって残されたことを思うと、因縁《いんねん》もまた奇妙な感じがします。ことのついでに、日本における遊女というものの沿革《えんかく》を老人に聞いてみると、古いところは万葉《まんよう》あたりまで溯《さかのぼ》る。その後、肥後の白川《しらかわ》、都近くは江口、神崎《かんざき》、東海道の駅々には、大磯、黄瀬川《きせがわ》、池田などに名を謳《うた》われた。遊女屋としてやや体《たい》を成しかけたのは、播州《ばんしゅう》の室津《むろつ》あたりであろうとのことです。
 平家が亡《ほろ》んで、辛《かろ》うじて生き残った官女たちが身を寄せるところに困って、みすみす人の遊びものになり、蟹《かに》も平氏を名乗って無念の形相《ぎょうそう》をする海辺に、浮かれ浮かれて身を売った。長門《ながと》の赤間《あかま》ヶ関《せき》、播州の室津などはそれである。ことに室津は都近い船着きであったから、遊里の体裁《ていさい》をなすまでに繁昌したものと見えます。
 官許遊廓の根源こそはこの島原。島原の歴史にもまた相当の盛衰栄枯があって、三筋町七人衆の時代、すなわ
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