ろへ手を入れてはみたが実は百二十文しかない。
「亭主、まことに相済まんが」
竜之助は財布を逆《さか》さにして、
「持ち合せが、これだけしかない、百二十文――」
「何でございますと」
饅頭屋の亭主は、少しく眼の色を変える。
竜之助が、もう少し如才《じょさい》なく詫《わ》びをしたら、或いはそれで負けてもらえたかも知れぬ、またこの店の亭主が、もう少し情けを知った人ならば、それで我慢《がまん》したかも知れぬ、しかしながら、竜之助は誰に向ってもするように、ない袖は振れぬ、ないものは払えぬというのが不貞《ふて》くされのようにも取れば取れるので、勘定高い亭主が承知しない。
「なんと言っても、ないものはないのだ」
竜之助は、ツンと言い切る。この場になっても竜之助には、これ以上のことは言えない。頭をたたいて哀求《あいきゅう》するなどということは、どうしたってできないのです。
「よろしゅうございます、左様ならば出る所へお出なさい」
亭主は襷《たすき》をはずして、どこへか行こうとする。
「待て、主人、どこへ行く」
竜之助は呼び止めると、
「このごろは諸国の浪人や無頼漢《ならずもの》が入り込んで、商売人泣かせを働いて困るじゃ、見せしめのため、お代官へ行き申す」
「待ってくれ」
竜之助はこの時、腰に差していた刀を鞘のまま抜き取って、亭主の前に置き、
「では此刀《これ》を取ってくれ」
「この刀を?」
「うむ、僅か三十文の銭のために縄目《なわめ》の恥にかかるのはいやじゃ、この一腰《ひとこし》を抵当《かた》にとってくれ」
「へえ、左様でございますか」
三十文の抵当に刀一本。たとえどんな鈍刀《なまくら》にしろ引合わぬということはない。亭主の機嫌が少し直り、
「どうも、町人には不似合いなものでございますが、では、一時それをお預かり申しておきましょう」
竜之助は、その刀をそこに置いて、財布も小銭も置き放し、笠一つを持って、ふいとこの店を出てしまいます。
「いやどうも、このごろは悪い奴が近辺へ入り込むので。なに、わずか三十文のところを手厳《てきび》しく言うでもないが、いくら饅頭屋《まんじゅうや》だからというて、甘くばかり見せておられぬわい」
この店を出た机竜之助、田原本の街道を取って北へと歩いて行く。竜之助が最初の目的ならば、東をめざすが順であろうに。
十七
と
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