杉|一幹《ひともと》、その下に愛宕《あたご》の社、続いて宮司の構《かまえ》。竜之助はそのいずれへも行かず、正面から鳥居を潜《くぐ》って杉の大木の下の石段を踏む。引返したとていくらの道でもあるまいものを。尋常の旅籠《はたご》に着いて、軟らかい夜具を被《かぶ》って、穏やかに夢を結んだらよかりそうなものを。
 身に火のついたものは井戸の中へも飛び込む。竜之助は心頭に燃えさかる火を消さんがために、わざと淋《さび》しいところ怖《おそ》ろしいところを求めて行くのか知らん。闇をたどって忍びやかに鈴鹿明神の頓宮《とんぐう》に入りこんだ竜之助は、とりあえず荷物を抛《ほう》り出して、革袋の中から火打道具と蝋燭《ろうそく》と懐中|付木《つけぎ》とを探って、火をつけ床《ゆか》に立てて、濡れた笠と合羽を脱ぎ捨てて、また革袋から小提灯《こぢょうちん》を取り出し、床に立てた蝋燭をそれにうつして一通り社殿の中を見廻しました。
 荷物を枕にしてみたが眠れない。
 お浜によう似た女のことが、どうも眼先にちらついてならぬ。若い夫婦が二見ヶ浦のあたりを行く、それがお浜と自分のようだ、おお、郁太郎もおるわい。
 とにもかくにも、お浜は情のある女であった。不足を唱《とな》えたのはああいう勝気な女の常で、そのくせ、よくあの暮しに辛抱して世話女房をつとめ了《おお》せたものだ……情に強いようで実はきわめて脆《もろ》い女である、自分を誤ったのがあの女の罪か、あの女を誤らせたのが自分の罪か。
 今となって物《もの》の哀《あわ》れに動かされると、竜之助も人が恋しくなる、眼が冴《さ》えて眠れない。
 外では雨にまじる風の音、稲荷《いなり》の滝の音が遠く攻鼓《せめつづみ》のように響いて来る。と、その中に人の鼾《いびき》。
「はて、人の鼾がするようじゃ」
 竜之助は小提灯の光を揚げて見ると、四隅のいずれにも鼾の主《ぬし》は見えないで、見上げるところに大きな額《がく》、流るる如き筆勢で、
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鈴鹿山、浮世《うきよ》をよそに振りすてて
 いかになり行く我身《わがみ》なるらん
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 これはこれ西行法師《さいぎょうほうし》の歌でありました。

         十七

「お前にそう言われると、わしはどのようにしてよいやら」
 床の柱に凭《もた》れて若い男は思案に暮れている様子を、それと向き合って女はなだめるように、
「どうと言うて真《しん》さん、今宵《こよい》はここへ泊って、明日はおとなしゅうお帰りなさるがお前のため、わたしのためでござんしょう」
「それが成るくらいなら……わしはこうしてここまで来はせぬわいな」
「そんなら、どうしようと言うの」
「それはお前の心を聞いての上」
「わたしの心はいま言うた通り」
「では、わしに京都へ帰れと言うの」
「それがおたがいの上分別《じょうふんべつ》」
「やと言うて、わしはもう京都へは帰られぬ」
「そんな駄々《だだ》を言うものではありませぬ」
「いやいやお前は何も知らぬ、わしが今日の身の上を知らぬ」
「今日の身の上というて、お前はやはり亀岡屋の跡を取る安楽な身分ではないか」
「それが違います、今の亀岡屋はお前の思うているような亀岡屋ではありやせぬ、わしの家は先月の十六日の夜に盗賊が入って……」
「あの、盗賊が?」
「軍用金じゃというて家の金銀は申すに及ばず、公儀よりお預かりの大切な品までもみんな奪って行きました」
「それは、ついぞ初めて聞きました」
「それに、わしが前からの身持ち、多分の使い込みが一時に現われて、ほんにもう立つ瀬がない」
「そんなこととは少しも知りませんでした」
「亀岡屋は丸つぶれ……父母へなんともお気の毒、それに不憫《ふびん》なは妹のこと」
「お雪さんが……」
「あ、島原へ身を売ってしまったわい」
 男はホロホロと涙をこぼします。
「まあ、お雪さんが島原へ……」
 女は驚いて、
「も一度くわしく話して下さい、お雪さまはもう勤めにお出なされたか、島原は何という家で、それはお母様も御承知のことか」
「このうえ尋ねてもらうまい……ともかくそれで、わしが京へ帰れぬわけを察してたも」
 男は腕を深く組んで、しゃくり上げているようです。
 竜之助とは火縄の茶屋で別れて、この若い男女は参宮に行くでもないし、地蔵堂に近い宿屋の離れ座敷に、こうして打明話《うちあけばなし》をし合って泣いている。峠で竜之助を苦しめた雨は、ここの中庭の植込をも物柔《ものやわら》かに濡らしている。関の小万の涙雨は、どちらへ降っても人に物を思わせると見えます。

「どうしましょうねえ」
 今までなだめ気味であった女の方が、事情を聞いてから、いっそう力を落したようです。
「せめて妹の身を救うてやりたいが」
 暫くたって男の声。外では雨がじめじめ降
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