この時、竜之助のあることを初めて知って、いかにも気の毒そうに、
「そんな無理なことを言うものではありませぬ」
「無理とはどっちの言うことだ御新造、いったいお前様は亀山のどこからおいでなされた、お前様の駕籠に乗り方があんまりあわただしいから、ずいぶん酒手を貰う筋があると睨《にら》んだのに何が無理でえ」
「まあ、どうしましょう」
女はわーっと泣き出すと、竜之助はすっくと立って物も言わずに黒坂の横面《よこつら》をピシーリ。
「あ痛ッ」
黒坂は何としたか一度ひっくり返って、その次に居直るかと思えばそうでもなく、雲を霞と逃げて行きます。
黒坂の逃げたのは、竜之助を巡廻の役人とでも思ったのか、それとも敵《かな》わじと見て仲間を呼んで仕返しに来るつもりでもあろうか。
「なんともお礼の申上げ様がござりませぬ」
女は乱れた衣紋《えもん》を繕《つくろ》うて竜之助の前に心からの感謝を捧げる。
「お怪我《けが》はござらぬか」
「いいえ、別段に怪我は致しませねど……あなた様がおいで下さらねば、どのようになりますることやら」
「悪い駕丁《かごや》どもだ」
竜之助は再び縁台に腰を下ろす。礼を言う女の面《かお》、潤沢《じゅんたく》な髪を島田に結うた具合、眼つきに人を引きつけるところ、首筋《くびすじ》から背へかけてすっきりした……どう見てもお浜です。
「おおお豊《とよ》さん、これに見えてか、えろうわたしは遅れましたわいな」
こう言いながらこの場へ駈け込むようにしたのは、旅の姿はしているがつやつやしい優男《やさおとこ》。
「真《しん》さん、わたしはひどい目に遭《あ》いましたわいな」
女は男の姿を見かけるとオロオロと泣きかけたので、
「お前は泣いている、まあ、どうしたものじゃいな」
男は近寄って女の背を撫《な》で、髪の毛までも掻き上げてやり、他《はた》の見る眼も親切にいたわります。
「悪い駕籠屋に難題をかけられて危ない目に遭うところを、これにおいでのお武家様に助けていただきました」
「おお悪い駕籠屋に……わしもそれを心配していた……これはまあ、いずれのお方様やら、御親切に」
若い男は竜之助の方に向き直り、倉卒《そうそつ》の場合ながら折屈《おりかが》みも至って丁寧であります。
この若い男の語るところによれば、男は京都の者で女は亀山、二人は親戚の間柄で、一緒に伊勢参宮をするとて、この宿で待ち合わせる約束であったとのこと。
竜之助は、二人がこもごも申し述べるお礼の言葉を聞き流して、
「おのおの方は早くここをお引取りなさい、また悪者が立帰ると事が面倒《めんどう》じゃ」
「左様ならば」
男は女を促《うなが》して、竜之助には改めて慇懃《いんぎん》にお辞儀をして、手を取り合わぬばかりに欣々《いそいそ》として立ち行く二人の後ろ影を、机竜之助は暫らく見送るともなく見送っておりました。
「おお、要《い》らざることに暇取《ひまど》った、老爺《おやじ》、茶代を置く」
十六
坂の下へ着いた時分には、坂も曇れば鈴鹿《すずか》も曇る、はたしてポツリポツリと涙雨です。
この雨が峠へかかれば雪になる。雨になり雪にならずとも夜になるにはきまっている。鬼の棲《す》むちょう鈴鹿の山を、ことさらに夜になって越えなくとも、坂の下には大竹小竹《おおたけこたけ》といって、間口十八間、奥行これに叶《かな》う名代《なだい》の旅籠屋《はたごや》もあるのだから、竜之助一人を泊めて狭しとするでもなかろうに、他目《わきめ》もふらず、とうとう坂の下の宿を通り越してしまいました。これから峠へかかって三里、茶屋も宿屋もないものと思わねばならぬ。さては夜道をするつもりで草鞋を穿き替えたものと見える。
「雨か」
竜之助が立ち止まって天を仰いだ時は、鈴鹿の山も関《せき》の雄山《おやま》も一帯《いったい》に夜と雨とに包まれて、行手《ゆくて》に鬱蒼《うっそう》と一叢《ひとむら》の杉の木立、巨人の姿に盛り上って、その中からチラチラと燈明《とうみょう》の光が洩《も》れて来る。
身はいつか鈴鹿明神の鳥居の前から遠からぬところに立っていたのであります。
「ああ雨か」
この雨は、竜之助が坂の下の宿に入る時分から降り出した雨です。いま見れば笠《かさ》も合羽《かっぱ》もビッショリ、それを気づかず、ここまで来て「雨か」は甚だ遅い。
「あの客人はどこへ行かんすやら」
大竹小竹の宿引《やどひき》が不審の眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》ったのも気がつかず、一文字にここまで来て、
「雨では山越しも困る」
鈴鹿明神の森の中を見込むと、鳥居の右へ向っては峠の山道、鈴鹿御前の社と内外宮《ないげぐう》とが棟を並べた中に、春日形《かすががた》の大燈籠の光も雨に濡れている。左手にはそそり立つ大
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