って、夕べを告げ渡る宝蔵寺の鐘の音に、たったいま女中の点《とも》して行った燈《あかり》の影がゆらゆらと揺れる。女はふと思い出したように、庭の木立に濺《そそ》ぐ雨を見て、
「日が暮れました、今晩は帰らねば」
 素振《そぶり》は急に落着かなくなる。
「帰る?」
 男は屹《きっ》と首をもたげて、
「わしを一人置いてお前は帰るのか」
「悪く取ってはいけませぬ、わたしはもう前のような身では……」
「はあ、それではかねて噂《うわさ》のあったように、あの、お前の縁組みが……」
「そんなことはないが、今宵《こよい》はどうぞ帰して下さい、そしてわたしにも考えることがあります故、明日の朝は、きっと出直して参りますから」
「もう日も暮れたに、一里半の道を……またさいぜんのような悪者が出たら」
「と言うて、帰らねばわたしの身が立たず。駕籠は宿に頼んで性《しょう》の知れた者を雇うて行きますから」
「それでは強《た》ってとめても悪い、帰るならお帰り」
「どうぞ、そうして下さい、その代り明朝は」
 男は返事をしない、女は済まないような気分で立ち上りました。
 女の亀山へ帰るというのを、男は涙を隠して廊下まで見送り、引返して、がったりと倒れるように、
「ああ、豊さんまでが……」
と言って、またハラハラ。

 亀山へ帰ると言うて出たお豊は、しばらくするとなぜか戻って来ました。廊下を忍び足に、もとの室のところまで来ると、障子の外に立って中の動静《ようす》に気を配るようでしたが、
「これまあ、真さん、お前は――」
 障子押しあけ、飛びついた男の手には白刃《しらは》がある。男は脇差《わきざし》を抜いて咽喉《のど》へ突き立てるところでした。
「こんなこともあろうかと、胸が騒いでならぬ故、立戻って来ましたわいな、さあ放して」
「豊さん……どうでもわしは死なねば……」
「そんな気の弱いことがありますものか、遺書《かきおき》まで書いて、危ないこと、危ないこと」
 女は男の手から脇差をもぎ取って、
「いまお前が死んだら、親御《おやご》たちや妹さんはどうします。わたしもこれでは帰れない、帰ることは止めにします。真さん、泊って行きます、今宵は泊めてもらいましょう、ゆっくり打明けて相談をしましょう、ね」

 お豊は真三郎と一夜を語り明かし、どう相談が纏《まと》まったものか、その翌朝は二挺の駕籠を並べて、亀山へは帰らずに、ちょうど竜之助が大津へ着いた頃、男女《ふたり》は鈴鹿峠の頂《うえ》を越えたものでありました。お豊の実家で娘の姿が見えぬとて、親たちもお豊の婿《むこ》になるべき人も血眼《ちまなこ》になって、八方へ飛ばした人が、関と坂下へ来た時分には、男女《ふたり》の姿は土山《つちやま》にも石部《いしべ》にも見えませんでした。



底本:「大菩薩峠1」ちくま文庫、筑摩書房
   1994(平成6)年12月4日第1刷発行
   1996(平成8)年3月10日第5刷
底本の親本:「大菩薩峠」筑摩書房
   1976(昭和51)年6月初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:(株)モモ
校正:原田頌子
2001年5月9日公開
2004年3月5日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全22ページ中22ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング