無鉄砲な考えで胸も頭もいっぱいでした。
 生きる執着《しゅうじゃく》が残っていたればこそ、いろいろと思い煩《わずら》ったものを、それが全く取れてしまえば、もう道は開けたので……その道は地獄よりほか行き場のない道ではあるけれども。
 お浜は手早く懐剣を拾い取って、盗み物を隠すように懐中へ入れてみると、胸は山のくずれるような音をして轟《ひび》きましたけれども、お浜の面《かお》には一種の気味のよいような笑いがほのめいて、じっと眼を行燈《あんどん》の光につけたまま失神の体《てい》で坐っている。
「浜、浜はまだいるか」
 これは竜之助が呼ぶ声。
「浜はおらぬか」
 二度目に呼んだ時にお浜の耳に入りました。そのとき三度目の声。
「浜、浜」
 竜之助の呼び声がこの時お浜にとって無茶苦茶にいやな感じを与えるのでありました。
 お浜の返事がないので、竜之助は立ってこちらへ来るようでしたが、
「旅立ちのお仕度かな」
 襖《ふすま》をあけるとそこへ突立ってこちらを見入っています。お浜はジロリとその面を見上げましたが、つんと横を向いて取合いません。
「浜、お前はどこへ行くつもりだ」
「存じません」
「まあよいわ、先刻お前から離縁の申し出があってみれば赤の他人……いや、まだ餞別《せんべつ》に申し残しがあったのだ、よく聞いておけ」
 竜之助は立ったなりで、
「おれは近いうちに宇津木兵馬を殺すぞよ」
「兵馬を殺す?」
 お浜は膝を向け直す。
「うむ、兵馬を斬るか、兵馬に斬られるか……」
「それは――」
「まさか兵馬が小腕に斬られようとも思わぬ、毒を食わば皿までということがある、宇津木兄弟を同じ刃《やいば》に……」
 竜之助の蒼白い面に凄い微笑が迸《ほとばし》る。
 お浜は真正面《ましょうめん》からその面を見上げて、この時は怖ろしいとはちっとも思いませんでした。
「お殺しなさい――」

         十

 竜之助は自分で酒を飲んで早く寝込んでしまいました。
 お浜は、また暫らくの間はぼんやりと坐っているばかり、郁太郎は幸いにすやすやと眠っています。
「兵馬を殺す」
と言った竜之助の一言、それがお浜の胸を刺す。

 竜之助も眠りに就いたようで、例の唸《うな》る声、キリキリと歯を噛《か》む音。
 お浜は思い出したように立ち上って次の間へ行ってみました。
 竜之助の机の上には、さきほど書いていたらしい手紙が三本。お浜はそっとその一つを手に取って見ると、それは宇津木兵馬からの果《はた》し状《じょう》でありました。
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「武道の習にて果合致度、明朝七ツ時、赤羽橋辻まで……」
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 お浜は読み去って宇津木兵馬と記された署名のところに来て、はじめて万事の合点《がてん》がいったのであります。
 殊勝《けなげ》なこと、こうも立派な果し状を人につけるようになったとは。自分の知ったのは十三四の可愛ゆい兵馬、それがまあ……それにしても、やっと十六か七、これまでには相当の修行も積んだことではあろうけれど、何というても竜之助の腕は豪《えら》いもの、刀を合せれば竜之助の酷《むご》い太刀先に命を落すは知れたこと。お浜は一途《いちず》に兵馬がかわいそうです。
「うーん」
 またしても魘《うな》される竜之助の声、兵馬を斬って血振《ちぶる》いをするのかとも想われる。
「兵馬どのが不憫《ふびん》じゃ」
 お浜の手がまたも懐剣へさわる。
 お浜は自分が死ぬ前に――竜之助を殺す――罪の二人が共死《ともじに》をすれば可愛らしい兵馬が助かる。お浜の決心は急速力で根強く、ついにここまで進んで来ました。
 果し合いを明朝に控えて、ともかくも眠っていられるだけの余裕《よゆう》が竜之助にはあるのです。
 衰えたりといえども剣を取っては人を眼中に置かぬ竜之助、僅かの間に一寝入りして気力を養っておこうと横になったけれども、この竜之介の気は疲れています。
 夜な夜な魘《うな》されたり、歯を噛んだり、盗汗《ねあせ》をかいたりすることは、かの新坂下の闇討に島田虎之助の働きを見てからであります。寝ても起きても島田の面《かお》つき、立って行く姿、坐っている態度、それが竜之助の眼先にちらついて離れることがありません。
 それがために頭が少しずつ混乱してゆくようで、今もこの僅かなる一寝入りにさえ、机竜之助の前には島田虎之助が衣紋《えもん》の折目正しく一※[#「火+主」、第3水準1−87−40]《いっちゅう》の香《こう》を焚《た》いて端坐しているところへ、自分は剣を抜いて後ろから覘《ねら》い寄る、刀を振りかぶると前を向いていた島田が忽然《こつぜん》とこっちへ向く、横に廻って突っかけようとすると、いつか島田はそっちを向いている、焦《いら》って躍《おど》りかかろうとすると、島田の前に焚かれ
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