、自分の子とは思うていないのかしら」
 そこへ飄然《ひょうぜん》と竜之助が帰って来ました。
「いま帰った」
 竜之助の面の色はいつもよりも一層|蒼白《あおじろ》く、お浜と郁太郎とをひとめ見たきりで、さっさと次の間へ行こうとする。お浜はこの時、腸《はらわた》の底まで竜之助の憎らしさが沁《し》み込んで、
「あなた、この子は誰の子でござんしょう」
 その声は泣き声でありましたから、竜之助はその切れの長い目でジロリと、
「誰が子とは?」
「坊やは誰の子でしょう」
「何をいまさら」
「郁太郎はお前様の子ではありませぬ」
「何を言うのだ」
「この子は死んでしまいますのに」
「なに?」
 竜之助は、お浜の例の我儘《わがまま》な突っかかりが始まったと思うたが、今日はそんな嚇《おど》し文句《もんく》に対して思いのほか冷淡で、
「寿命《じゅみょう》なら死ぬも仕方がない」
「まあ……」
 お浜は凄《すご》い目をして竜之助を睨みました。竜之助もまた沈み切った眼付でお浜を睨み返す。いつもならばここで癇癪《かんしゃく》が破裂して、生きるの死ぬのと猛《たけ》り立つべき場合であったのに、今日は不思議にも二の句をついで何とも言い張りません。
 竜之助はそのまま次の室へ入って、机に向って暫らく茫然《ぼうぜん》と坐っていましたが、自分で燈火《あかり》をつけて、それから料紙《りょうし》、硯箱《すずりばこ》を取り出して何か書き出したものと見えます。
 まもなくお浜はここへ入って来ました。
「あなた、竜之助様」
「何だ」
「お願いがござりまする」
「言ってみろ」
 竜之助は書きかけた筆を置きもせず、お浜の方を見返りもせず冷やかな返事です。お浜の方も何か深い決心があるらしくて、別にくどいことも言わず、これも眼の中はやっぱり冷やかな光で満ちて、
「離縁をして下さい」
「離縁?」
 竜之助はこの時、ちょっと筆を休めてお浜を見返り、
「離縁、それも面白かろう」
「ええ、面白うござんす、ずいぶんあなたとは永く面白い芝居を見ましたから」
「ここらで幕を下ろそうというのかな」
「離縁状を書いて下さい」
「誰に断《ことわ》った縁でもない、いまさら三行半《みくだりはん》にも及ぶまいが」
「そんなら今から出て行きます」
「それもよかろう」
 竜之助は、いよいよ冷淡な気色《けしき》で、
「しかしここを出てどこへ行く」
「どこへ行きましょうとお差図《さしず》は受けませぬ」
「別に差図をしようとは言わぬ、ただ郁太郎の面倒《めんどう》は頼みますぞ」
「郁太郎はわたしの子ですもの」
 お浜はついと立って出て行きます。

 お浜は箪笥《たんす》の抽斗《ひきだし》をあけて、あれよこれよと探しはじめましたが、そのうちにふと抽斗の底から矢飛白《やがすり》の袷《あわせ》を引張り出しました。
 この袷は文之丞から離縁を申し渡された時に着ていた袷。そっと山へ登り、霧《きり》の御坂《みさか》で竜之助に会ったとき着ていたのもこの袷。
 されば無論のこと、この袷を着て竜之助と一緒に、あれから御岳の裏山伝いに氷川《ひかわ》へ落ち、そこの炭焼小屋で夜を明かし、上野原の親戚をそっと欺《あざむ》いて旅費を借りて、それで二人が甲州街道を江戸へ下った時、やはりこの袷を着ていたのであります。
 ここに世帯を持ってから、屑屋《くずや》にも売られずに残っていることが思い出の種《たね》。和田へ来るとき甲州の姉が贈ってくれたこの袷。自分はいい気になって、ずいぶん姉様をもないがしろに取仕切《とりしき》った、それでも姉夫婦は自分が宇津木へ縁づくについてはさまざまに力を入れてくれ、この着物なども姉様が手縫《てぬい》にして下すったもの。
 お浜はそれを思うと自分の我儘《わがまま》であり過ぎたこと、姉の親切であったことなどが身に沁《し》みてくるのです。
「甲州へ帰りましょう」
 一旦はこうも考えてみたのですが、打消して、
「ああ、どうしてそんなことができよう、そんなことができる義理ではない。さあ、そんならばどこへ行こう」
 お浜は竜之助に離れて行くところはないのです。ないことはない、あるといえば、たった一つあります。その場所というのは――つまり、もとの夫宇津木文之丞のいるところ、そこよりほかはないはずです。お浜はじっと考え来《きた》って血がすっと胸から頭まで湧き立ちました。
 袷を投げ出した時――衣類の間に見えたのは袋に入れた一口《ひとふり》の懐剣です。
 お浜はこの懐剣を見ると、
「死!」
 この世で最も怖ろしい感情。
「生きて生恥《いきはじ》を曝《さら》すより、いっそ死のう」
 これがこの瞬間に起った考えでありました。
 お浜は今まで死ぬ気はなかったのです、郁太郎をつれてとにかくこの家を出て、広い世間のどこかに隠《かく》れ家《が》を見つけようと、
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