た香の煙が一直線に舞い上って、その末端がクルクルと廻って自分の面に吹きかけて来る。竜之助、その煙を払いながら太刀をつけて島田の周囲をグルグル廻っているうちに、眼が眩《くら》んで鼻血が出て、そこへ香の煙が濛々《もうもう》と捲《ま》いて来て息が詰まる。その時にヒヤリと自分の首筋に冷たいもの。
「やッ何者! 誰だ!」
 夢を破られた竜之助、パッと跳《は》ね起きてむずと押えたのは和《やわ》らかい人の手、その手首には氷のような白刃《しらは》が握られてありました。これは夢ではない、たしかに現実。
「やあ、浜ではないか」
 竜之助の上から乗りかかって、彼の首に短刀を当てたのは、現在の自分の妻の仕業《しわざ》でありました。
「何をする、気ちがいめ」
 竜之助は短刀を奪い取って身を起すと共に、はったと蹴倒《けたお》すと、お浜は向うの行燈《あんどん》に仰向《あおむ》けに倒れかかって、行燈が倒れると火皿《ひざら》は破《こわ》れてメラメラと紙に燃え移ります。
 蹴倒されたお浜は、むっくりと起き直るや、前に用意して明けておいたと見える表の戸から外の闇へ転《ころ》げ出してしまいました。
「憎い女!」
 お浜の倒した行燈の火はみるみる障子に移ります。これを踏み消しておいて竜之助、刀を取って同じく表の闇へ飛び下りる。
 家の中も真の闇。その中では郁太郎が咽喉《のど》の裂けるばかりに泣いている。
 お浜はどこへ行った。

 闇とは言いながら、もう夜明けに間もない時ですから東の空は白《しら》み渡っていました。神明《しんめい》から浜松町へかけての通り、お浜の駈けて行く後ろ影。
 増上寺三門の松林の前まで追いかけて、
「待て!」
 お浜の襟髪《えりがみ》は竜之助の手に押えられて、同時にそこに引き倒されたのであります。
「放して下さい」
「浜、おのれは兵馬に裏切りをしたな」
「早く殺して下さい――」
 殺したところで功名《こうみょう》にも手柄《てがら》にもならぬ。のぼりつめた時にも冷静になり得る竜之助、お浜の取乱した姿を睨《にら》んでいる。
「竜之助様、わたしを殺して、どうぞお前も殺されて下さい」
 面《かお》と面とを合せれば、いくらか白み渡った空ですから、見てとることもできる通り、お浜はもう放せの助けろのと騒ぐ峠は越して、言葉にも相当の条理がある。
「わたしもお前様におとなしく殺されて上げますから、お前様もどうぞ素直《すなお》に兵馬の手にかかって殺されて下さい、そうすれば、あれもこれも帳消し……罪ほろぼしとやらになりましょうから。ねえ、竜之助様」
 御成門外《おなりもんそと》で人の足音、増上寺の鐘。
「人殺し――」
 竜之助はついにお浜を殺してしまいました。

         十一

「あの声は――」
 今の絶叫を聞咎《ききとが》めたのは、御成門外で駕籠《かご》を捨てた宇津木兵馬の一行です。
「人殺しと聞えた」
 介添《かいぞえ》に来た片柳伴次郎が小首を傾ける。
「たしかにあの松原の中」
 兵馬は松原の木《こ》の下闇《したやみ》を見込む。
「見届けて来ますべえか」
 提灯《ちょうちん》を持った与八が松原の中へと進んで行く。松原の中へ入りこんだ与八、松の木にバッタリ、
「あ痛《いて》え」
 額《ひたい》を押えてみると、ぷんと血の香《か》。
「はて……」
 提灯を差しつけると、そこの松の木の根に人がある。
「えッ、人が――」
 それは女、胸のあたりからベットリと土にまで流れた血。
「皆さん、女が殺されている」
 大事の前、それでも人の一命と聞いて見過ごすわけにはいかない。
「ああ、酷《むご》たらしい殺され方」
「それ、血が袴《はかま》の裾《すそ》に」
「傷はどうじゃ」
「胸を一突き」
「もっと提灯を近く」
「ああかわいそうに。乳の下を突かれたのかね」
 提灯を突きつけてオドオドしていた与八は、
「おや、なんだか見たことのあるような女衆だ」
 与八は死人の面《かお》に自分の面を摺《す》りつけるようにして、
「もし……この女衆は……お浜さま……」
 不安の色で兵馬を見上げて、
「兵馬様……お前様もよくこの女衆の面を見て下さいまし、気のせいか、文之丞様の奥様に似てござる」
「ナニ、姉上に?」
 兵馬は附添の片柳と水島とを押し分けて、
「姿は変れどよう似てござる、念のため与八どの、この女の持物はないか、調べてくりゃれ」
「ここに短い刀が……書付が……あれ、こっちにも」
 与八が拾って兵馬に手渡したのは、意外にも自分の手から机竜之助に送った果し状でありました。
 次に受取った一通、
「なに、宇津木兵馬殿へ、はまより?」
 これはお浜の手ずから書いたもので、そして兵馬に宛てた手紙。

 机竜之助は果し合いの場へ出て来ませんでした。
 果し状をつけられながら逃げるというはこの上もな
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