すと、ちょうど馬場の隅《すみ》のところに屋台店を出しているものがあります。これを幸いに与八はみどりの手を引いて、屋台店の暖簾《のれん》をかぶると、
「いらっしゃいまし、ずいぶんお寒うございます、この分ではまだ雪も降りそうで……」
お世辞《せじ》を言う中婆《ちゅうばあ》さん。まだどこやらに水々しいところもあって、まんざら裏店《うらだな》のかみさんとも見えないようでした。
「みどりさん、天ぷらを食わねえか」
「与八さん、お前がよければ何でも」
「それでは天ぷらを二人前《ににんまえ》」
暫くして、
「お待ち遠さま」
行燈《あんどん》の光で器《うつわ》を出す途端に、面《かお》と面とを見合せた屋台店のおかみさんとみどり。
「おお、あなたは伯母《おば》さん」
みどりのお松は我を忘れて呼びかけました。
「まあ、お前はお松ではないか」
屋台店の主婦も呆《あき》れてこう言いました。
「伯母さん、どうしてこんな所に……」
「お前にこんなところを見られて、わたしは恥かしい」
きまりの悪そうなのも道理、この屋台店の主婦というのが、本郷の山岡屋の内儀《ないぎ》のお滝が成《な》れの果《はて》でありました。
「伯母さん、ほんとに御無沙汰《ごぶさた》をいたしましたが、皆様お変りもござりませぬか」
「変りのないどころじゃない。それにしても、お前もまあよく無事でいてくれたねえ」
「わたしも伯母さんのところからお暇乞《いとまご》いをしてあと、いろいろな目に遭《あ》いました」
「あの時はお前、わたしが留守《るす》だものだからつい……」
お滝も、あの時の無情な仕打《しうち》を考え出しては多少良心に愧《は》じないわけにはゆかないから、言葉を濁《にご》して、
「まあ、なんにしても珍しいところで会いました、お前、お急ぎでなければ、わたしの家へ来てくれないか、ついそこの佐久間町にいるんだから」
こう言われてみると、是非善悪にかかわらず、この場合お松にとっては渡りに船です。
「わたしも伯母さんに御相談していただきたいことがありますから、お差支《さしつか》えなければ、お邪魔《じゃま》にあがりましょう。ねえ与八さん、この方はわたしの伯母さんなの」
「そうでしたかえ、今晩は」
さきほどから二人の有様をながめて怪訝《けげん》な面《かお》をして箸《はし》を取落していた与八、引合わされて取って附けたような挨拶《あいさつ》でした。
この伯母さんに引張られて、二人は佐久間町の裏へ来て見ると、八軒長屋の、こっちから三つ目の家。伯母は委《くわ》しく身の上を語ることを避けたがっていたが、その話の筋は、山岡屋は最初、泥棒に入られ、それから番頭に使い込まれ、次に商売が大損で、とうとう瓦解《がかい》してしまったということです。それから瓦解と前後して主人の久右衛門が死んだ、残るところは借金ばかり、出入りの親切な人に助けられて、今ではその人と一緒になっているということを伯母が涙ながらに語るものだから、お松もついつい自分の身の上を打明けて、邸を逃げ出して来たことまで隠すことができなくなりました。
「心配をおしでない、これからお前の身の上はわたしが引受けるから」
と伯母が言ったが、これはあまり押しの利《き》いた言葉ではないのですけれども、こうなってみれば、さしあたりこの人を頼りにせねばなりません。
幸い、一軒置いた隣が明いていたから、与八とお松とはそれを借りて隠れるということに、その夜のうちに相談がきまりました。
その翌朝になると、お松の頭が重くて熱がある。つとめて起きてみたけれども、ついに堪えられないで、どっと寝込んでしまいました。
お滝もやって来て心配そうな面《かお》をするが、それよりも与八の心配は容易なものではないのです、医者を呼ぶことはよしてくれと、逃げて来た手がかりを怖れてお松が頻《しき》りに止めるものだから、
「それでは風邪薬《かぜぐすり》でも買って来《く》べえ。それ、蒲団《ふとん》を頭のところからよく被《かぶ》っていねえと隙間《すきま》から風が入る」
与八はお松に夜具を厚く被せてやって、風邪薬を買いに出かけると、それと行違いのようにやって来たのが伯母のお滝です。
「お松、気分はいいかい、さっき持たしてよこした玉子酒《たまござけ》を飲んでみたかい」
「はい、どうも有難うございました」
「与八さんはどこへ行ったの」
「買物に行きました」
「そうかい――」
お滝は枕許《まくらもと》へ寄って来て、お松の額《ひたい》に手を当て、
「おお、なかなか熱がありますね、大切にしなくては……それからねお松」
お滝は言いにくそうに、
「お前、なにかね、お鳥目《ちょうもく》を少しお持ちかね」
「はい」
「お持ちならばね、ほんとに申しにくいけれどね、商売の資本《もとで》に差支えたものだからね、
前へ
次へ
全22ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング