田を斬らねば新徴組の面目丸つぶれじゃ」
「しかし、本来を言えば島田にはなんの怨《うら》みもない、落度《おちど》はこっちにあるから自業自得《じごうじとく》じゃ」
「そうでない、我々同志が敵でもあり、公儀にとっても油断のならぬ島田虎之助、ぜひとも命を取らにゃならぬ」
低く話すつもりでも高くなりがちな芹沢の声音《こわね》。
次の間で仕度を済ましたお浜は、穏やかならぬ話の様子が心配なので、そっと郁太郎の傍に添寝《そいね》をしながら二人の話を立聞き――いや寝聞きです。
お浜はこうして次の間の話を盗聴《ぬすみぎき》していると、それから話し声は急に小さくなって聞き取れません。
お浜は近ごろ竜之助が、夜の帰りも遅くなり、時には酒に酔うて帰ることが多いので、それも心配の一つ。ことにいずれも一癖《ひとくせ》ありそうな浪人者とばかり往来することが、心がかりでなりません。いま来た客というのも浪人組の隊長株であるとやら。さいぜん話の通り故郷へ引込むことができれば、竜之助の心も落着いて、酒を飲むこと、気が荒くなることも止み、浪人者との往来も少なくなるであろう。
低い声で竜之助と芹沢とが話し合っているうちに、おりおり近藤とか土方とかいう人の名が聞えます。土方歳三という人は剣術の出来る人で、もとの夫、文之丞とは往来のあった人、このごろどうかすると竜之助の口からその名前を聞く。また近藤勇という人も、八王子の天然理心流の家元へ養子になった有名な荒武者であって、これも竜之助が近ごろ懇意《こんい》にしているようです。それらの名前を聞きとがめては、いろいろと気にしていると、
「吉田氏、貴殿は宇津木兵馬という者を御存じか」
芹沢の口から出た兵馬の名。お浜はハッとしました。
「ナニ、宇津木?」
竜之助の言葉も気色《けしき》ばむ。
「いかにも。その宇津木兵馬という者が、貴殿を仇と覘《ねら》いおるげな」
「そのような覚えが無いでもない」
竜之助はさのみ驚かず。
「その宇津木兵馬に、近藤、土方らが助太刀《すけだち》して、近いうち貴殿の首を取りに来るそうじゃ」
ありありと聞き取ったお浜は、我を忘れて障子際《しょうじぎわ》に耳を寄せようとすると、乳房がよく寝ていた郁太郎の面《かお》を撫《な》でて、子供は夢を破られんとし、むずかって身を動かすので、お浜はあわててかかえて綾《あや》なします。
それから話はまた小声になって、何だか聞き分けられません。暫くあって、
「しからば拙者はこれでお暇《いとま》を致そう、貴殿もよくよく考えておき召されよ」
芹沢はこう言い捨てて帰るらしいから、お浜もそこを起きようとすると、
「その宇津木兵馬とやらはどこにいる」
立つ芹沢に問いかけたのは竜之助です。
「それは明かされぬ、それを明かしてはあったら[#「あったら」に傍点]少年が返り討ちになる。しかし、御用心御用心」
「うむ――」
竜之助は押返して問うことをしなかったと見えます。
三
「与八さん、わたしはこのお邸で死ぬか、そうでなければこのお邸を逃げ出すよりほかに道がなくなりました」
とうとう我慢がしきれずに、お松は夜業《よなべ》をしている与八のところへ来てホロホロと泣きました。仕事の手を休めて聞いていた与八は、
「逃げ出すがよかんべえ」
突然《いきなり》にこう言い出して、やがてあとをつづけて言うには、
「俺《おら》もお前様に力をつけて辛抱《しんぼう》するように言ってみたあけれど、どっちにしてもこのお邸は為めになんねえお邸だ、いっそのこと、逃げ出した方がいいだ」
「それでは与八さん、わたしは直ぐにこれから逃げ出しますから誰にも黙っていて……」
「お前様が逃げ出すなら俺《おら》も逃げ出すから、一緒に逃げべえ」
「与八さん、お前が一緒に逃げてくれる?」
これはお松にとっては百人力です。こうして二人は、風儀の悪い旗本神尾の邸を脱け出す相談がきまってしまいました。
与八と、みどりとは、その晩、首尾《しゅび》よく神尾の邸を脱け出して、
「与八さん、どこへ行きましょう」
「沢井の方へ行くべえ、あっちへ行けば俺《おら》が知っている人がいくらもあるだ」
伝馬町を真直《まっすぐ》に、二人は甲州街道を落ちのびようというつもりでした。二人ともあまり地理に慣れないものですから、道を反対に取違えてしまって小石川の水戸殿の邸前《やしきまえ》へ出てしまったのです。
「こりゃ違ったかな、こんな坂はねえはずだが」
お茶の水あたりへ来た時に与八はやっと気がついて、
「何でもいい、行けるだけ行ってみべえ」
昌平橋と筋違御門《すじかいごもん》との間の加賀原《かがっぱら》という淋しいところへ来ると、向うから数多《あまた》の人と提灯《ちょうちん》、どうも役人らしいので与八も困って前後を見廻
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