少しばかりでよいから融通してもらえまいかね」
「エエようござんすとも」
 お松は快く承知して、
「済みませんけれども伯母さん、その手文庫を……その中に包みがありますから封を切って、お入用《いりよう》だけお使い下さいませ、たくさんはございませんけれど」
「そうかい、わたしが手をつけていいかい、済まないねえ、それでは調べてみますよ」
 お松が神尾の邸を逃げるとき持って出た自分の手文庫、お滝はその蓋《ふた》を取って、
「まあ、大へん綺麗なものがあるね、これは短刀かえ、錦《にしき》の袋なんぞに入ってさ。これがお金の包み、まあ驚いた小判だね。それではお前、このうちを二両だけ借りておきますよ。ほんとに済まないね、お礼を申しますよ。それから何でもお前、不自由があったら遠慮なくそうお言い、我儘《わがまま》を言い合うようでないと親身《しんみ》の情がうつらないからね」
 お滝がお世辞たらたらで出て行くと、まもなく与八が帰って来ました。

 お松の病気はその翌日になっても癒《なお》りません。与八は大へんな心配で、枕許《まくらもと》を去らずに看病しているところへお滝がやって来て、
「どうだいお松、ちっとはいいかい。医者に診《み》ておもらいよ、長者町の道庵《どうあん》さんに診ておもらい。なあに、道庵先生なら心配はないよ、あの先生の口からお前の身の上がばれるなんということはないよ。与八さん、御苦労だが道庵さんへ行っておいで。この前の大通りを、それ、大きな油屋があるでしょう、あの辺が相生町《あいおいちょう》というのだから、その相生町の角《かど》を真直ぐに向うへ行ってごらん、小笠原様のお邸がある、そのお邸の横の方が長者町だからね、あの辺へ行って道庵先生と聞けば子供でも知っているのだよ……それから、あの先生にお頼み申すにはね、秘訣《こつ》があるのだよ、その秘訣を知らないと先生は来てくれないからね」
 お滝は手ぶり口ぶり忙がしく与八に説いて聞かせる。
「その秘訣というのはね、貧乏人から参りましたが急病で難渋《なんじゅう》しております、どうか先生に診ていただきたいのでございますと、こう言うんだよ。貧乏人と言わないといけないよ、金持から来たようなふうをすると先生は決して来てくれない、いいかね、貧乏人から来ましたと言うんだよ」
「そんなに貧乏が好きなのかい」
「貧乏が好きというわけじゃないだろうけれど、そこが変人なんだよ。それから、いつでも酔っぱらっている先生だからそのつもりで」
 お滝は喋《しゃべ》りつづけて、いわゆる道庵先生のところへ与八を出してやったあとで、またそろそろとお松の枕許に寄り、
「お前ほんとに済みませんがね、今月の無尽《むじん》の掛金に困っているものだから……」
 お松の持っていた金は、もうこの気味の悪い伯母に見込まれてしまったのです。

         四

 どこへ行くのか知らん、机竜之助は七ツさがりの陽《ひ》を背に浴びて、神田の御成街道《おなりかいどう》を上野の方へと歩いて行きます。小笠原|左京太夫《さきょうだゆう》の邸の角まで来ると、
「わーっ」
 いきなり横合いから飛び出して竜之助の前にガバと倒れたものがあります。竜之助も驚いて見ると、慈姑《くわい》のような頭をした医者が一人、泥のように酔うて、
「やあ失礼失礼」
 起きようとするが腰に力が入らないおかしさ。やっとのことで起きて面《かお》を上げると、竜之助も吹き出さずにはおられなかったのは、いい年をしたお医者さんが潮吹《ひょっとこ》の面《めん》をかぶって、その突き出した口をヒョイと竜之助の方に向けたからです。
「お起きなさい」
 竜之助は苦笑《にがわら》いしながら医者の手を取って起してやると、
「失礼失礼」
 骨なしのようにグデングデンで、面をかぶったままでお辞儀をするのが、いかにもおかしい。それと見た近所の子供連中がワヤワヤと寄って来て、
「やあ、道庵先生がひょっとこ面をかぶってらあ、おかしいなあ」
「先生、その面をあたいにおくれよう」
「おじさん、あたいにおくれよう」
 医者の周囲《まわり》を取巻くと、
「面《めん》こは一つしかないぞ、お前らみんなに分けてやれない」
「それではおじさん、じゃんけんをして勝ったものにおくれよう」
「じゃんけんでも何でもやれやれ、わーっ」
 また竜之助の前へ倒れかかろうとする、竜之助はまた支える。
「やあ、失礼失礼」
 往来の人は歩みを止めて集まって来る。竜之助は厄介《やっかい》な者につかまったと当惑し、
「これ子供たちや、このおじさんはどこの人じゃ」
「これは道庵先生というて、長者町のお医者さんじゃ」
「このように酔うては難儀じゃ、誰か邸まで沙汰《さた》をしてくれ」
「ナニおじさん、大丈夫だよ、この先生はいつでも酔払《よっぱら》ってるんだから放《ほう》っ
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