ましょうとお差図《さしず》は受けませぬ」
「別に差図をしようとは言わぬ、ただ郁太郎の面倒《めんどう》は頼みますぞ」
「郁太郎はわたしの子ですもの」
 お浜はついと立って出て行きます。

 お浜は箪笥《たんす》の抽斗《ひきだし》をあけて、あれよこれよと探しはじめましたが、そのうちにふと抽斗の底から矢飛白《やがすり》の袷《あわせ》を引張り出しました。
 この袷は文之丞から離縁を申し渡された時に着ていた袷。そっと山へ登り、霧《きり》の御坂《みさか》で竜之助に会ったとき着ていたのもこの袷。
 されば無論のこと、この袷を着て竜之助と一緒に、あれから御岳の裏山伝いに氷川《ひかわ》へ落ち、そこの炭焼小屋で夜を明かし、上野原の親戚をそっと欺《あざむ》いて旅費を借りて、それで二人が甲州街道を江戸へ下った時、やはりこの袷を着ていたのであります。
 ここに世帯を持ってから、屑屋《くずや》にも売られずに残っていることが思い出の種《たね》。和田へ来るとき甲州の姉が贈ってくれたこの袷。自分はいい気になって、ずいぶん姉様をもないがしろに取仕切《とりしき》った、それでも姉夫婦は自分が宇津木へ縁づくについてはさまざまに力を入れてくれ、この着物なども姉様が手縫《てぬい》にして下すったもの。
 お浜はそれを思うと自分の我儘《わがまま》であり過ぎたこと、姉の親切であったことなどが身に沁《し》みてくるのです。
「甲州へ帰りましょう」
 一旦はこうも考えてみたのですが、打消して、
「ああ、どうしてそんなことができよう、そんなことができる義理ではない。さあ、そんならばどこへ行こう」
 お浜は竜之助に離れて行くところはないのです。ないことはない、あるといえば、たった一つあります。その場所というのは――つまり、もとの夫宇津木文之丞のいるところ、そこよりほかはないはずです。お浜はじっと考え来《きた》って血がすっと胸から頭まで湧き立ちました。
 袷を投げ出した時――衣類の間に見えたのは袋に入れた一口《ひとふり》の懐剣です。
 お浜はこの懐剣を見ると、
「死!」
 この世で最も怖ろしい感情。
「生きて生恥《いきはじ》を曝《さら》すより、いっそ死のう」
 これがこの瞬間に起った考えでありました。
 お浜は今まで死ぬ気はなかったのです、郁太郎をつれてとにかくこの家を出て、広い世間のどこかに隠《かく》れ家《が》を見つけようと、
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