《ようだい》が思わしくないから、お浜が引続き郁太郎を介抱《かいほう》している間に、竜之助は一室に閉籠《とじこも》ったまま咳《せき》一つしないでいるから、
「あの人は、どうしてああも気が強いのかしら」
 お浜は竜之助が、我が子の大病をよそに、何をしているだろうと、怨めしそうに独言《ひとりごと》をしてみたりしているうちに、竜之助がついと室を出て来ました。
 見れば刀を提《さ》げていますから、
「どこへおいでなさる」
「ちょっと芹沢《せりざわ》まで」
「急の御用でなければ、坊やもこんな怪我《けが》なのですから宅にいて下さい」
「急の用事じゃ、直ぐ帰る」
「早く帰って下さい、そうでないと心細いのですから」
「うむ」
 出て行く竜之助の後ろ影を見送りながら、
「あの人は、情愛というものを知ってかしら」
 何とはなしに、竜之助と添うてからのことが胸に浮んで来ました。愚痴《ぐち》は昔に返るのみで、文之丞との平和な暮しに自分が満足しなかったことの報いを今ここに見るとは思い知っても、まだまだ自分が悪い、自分だけが悪いのだとは諦《あきら》め切れないのです。
 こんなふうに、お浜は人を恨《うら》んだり自分を恨んだりして郁太郎の介抱に一日を暮らしましたが、直ぐ帰ると言った竜之助は、夕方になっても帰って来ないのです。
「ほんとうにどうしたことでしょう、あの人はあんまり情けない」
 お浜は繰返し繰返し竜之助の帰りの遅いことを恨んで、
「どうして現在自分の子にまで、こんなに情愛がないのでしょう」
 いったん悪縁に引かされて、お互いに切っても切れぬようになったればこそ、二人はともかくも無事にここまで暮したけれど、お浜にとっては竜之助の愛情がいつも不足に堪《た》えられなかったのです。お浜はじっさい竜之助から、もっと濃い情愛を濺《そそ》がれたかったはずなのに、それは存外|冷《ひや》やかで、時としてはお互いの心と心との間に鉄を挿《はさ》んだような隔てが出て来るように感じ、ついには竜之助の愛し方が足りないばかりでなく、二人の間に出来た子供に対してすら、その愛し方に不満足を感ずるのであります。
「郁太郎はおれの子ではない」
 竜之助はいつぞや腹立《はらだち》まぎれに、お浜に向ってこんなことを言ったことがある。それが今も怖《おそ》ろしい勢いでお浜の耳に反響して来るのでありました。
「あの人は、ほんとにこの子を
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