と言って慄《ふる》え上った瞬間に眼前にひらめいた先《せん》の夫《おっと》文之丞のことはどうだろう、木刀の一撃にその人が無残の最期《さいご》を遂《と》げた時、お浜という女はその人のために、どれだけ悲しみ、その相手をどれだけ怨《うら》んだか。
 お浜とても、今まで寝醒《ねざ》めのよいことばかりはなかったのですが、今という今、苦しがる郁太郎の面《かお》に文之丞の末期《まつご》の色がある。天井で噪《さわ》ぐ鼠の音、それが文之丞の声。屏風《びょうぶ》の裏、そこから幽霊が出て来るよう。仏壇の中、そこには文之丞が蒼《あおい》い面をして睨《にら》めている。蒲団の唐草《からくさ》の模様を見ると、その蔓《つる》がぬるぬると延びて来て自分の首に巻きつきそうにする。鏡台の裏からは長い手が出てお浜の胸や腹を撫《な》で廻そうとしている。針箱の抽斗《ひきだし》からはむらむらと雲が出て来てお浜の目口に押込もうとする。障子の破れから今にも鬼が出て郁太郎を浚《さら》って行きそうでならぬ。
 室の内、どこを見てもここを見てもみんな恐《おそ》ろしいものばかり。お浜は眼がクラクラして、じっとしていられなくなったので、立って小窓を押しあけて外を見ました。
 夜の空気がさやさやと面に当るのでお浜はホッと息をついて、また郁太郎を抱き上げて、窓のところへ立ちながら、
「ほんとに、どうしたのでしょうお医者様は……」
 郁太郎は泣きじゃくってピクリピクリと身体《からだ》を動かすばかり。やはり眼を見開いて、母親の面を睨んでいます。
 ちょうど有明《ありあけ》の月がこの窓からは蔭になりますけれども、月の光は江川の本邸の内の土蔵の棟《むね》に浴びかかって、その反射で見た我が子の面が、この世の人のようには見えなかったので、
「坊や、みんな母さんが悪かったのだよ」
 こう言って涙をハラハラと郁太郎の面に落しました。
 医者も竜之助もまだ来る様子はないのに、お浜はしかと郁太郎を抱えたなり、その窓際《まどぎわ》に立ちつくしているのでありました。

         九

 昨夜の騒ぎで机竜之助は少し寝過ごしていると、
「あなた、あなた」
 枕許《まくらもと》を揺り動かすのはお浜の声。
 頭を上げて見ると、日はカンカンとして障子にうつる老梅の影。
「こんなお手紙が」
「ナニ、手紙が……」
 竜之助、何心なく受取って見ると意外にも逆封《
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