あいさつ》でした。
 この伯母さんに引張られて、二人は佐久間町の裏へ来て見ると、八軒長屋の、こっちから三つ目の家。伯母は委《くわ》しく身の上を語ることを避けたがっていたが、その話の筋は、山岡屋は最初、泥棒に入られ、それから番頭に使い込まれ、次に商売が大損で、とうとう瓦解《がかい》してしまったということです。それから瓦解と前後して主人の久右衛門が死んだ、残るところは借金ばかり、出入りの親切な人に助けられて、今ではその人と一緒になっているということを伯母が涙ながらに語るものだから、お松もついつい自分の身の上を打明けて、邸を逃げ出して来たことまで隠すことができなくなりました。
「心配をおしでない、これからお前の身の上はわたしが引受けるから」
と伯母が言ったが、これはあまり押しの利《き》いた言葉ではないのですけれども、こうなってみれば、さしあたりこの人を頼りにせねばなりません。
 幸い、一軒置いた隣が明いていたから、与八とお松とはそれを借りて隠れるということに、その夜のうちに相談がきまりました。
 その翌朝になると、お松の頭が重くて熱がある。つとめて起きてみたけれども、ついに堪えられないで、どっと寝込んでしまいました。
 お滝もやって来て心配そうな面《かお》をするが、それよりも与八の心配は容易なものではないのです、医者を呼ぶことはよしてくれと、逃げて来た手がかりを怖れてお松が頻《しき》りに止めるものだから、
「それでは風邪薬《かぜぐすり》でも買って来《く》べえ。それ、蒲団《ふとん》を頭のところからよく被《かぶ》っていねえと隙間《すきま》から風が入る」
 与八はお松に夜具を厚く被せてやって、風邪薬を買いに出かけると、それと行違いのようにやって来たのが伯母のお滝です。
「お松、気分はいいかい、さっき持たしてよこした玉子酒《たまござけ》を飲んでみたかい」
「はい、どうも有難うございました」
「与八さんはどこへ行ったの」
「買物に行きました」
「そうかい――」
 お滝は枕許《まくらもと》へ寄って来て、お松の額《ひたい》に手を当て、
「おお、なかなか熱がありますね、大切にしなくては……それからねお松」
 お滝は言いにくそうに、
「お前、なにかね、お鳥目《ちょうもく》を少しお持ちかね」
「はい」
「お持ちならばね、ほんとに申しにくいけれどね、商売の資本《もとで》に差支えたものだからね、
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