また小声になって、何だか聞き分けられません。暫くあって、
「しからば拙者はこれでお暇《いとま》を致そう、貴殿もよくよく考えておき召されよ」
芹沢はこう言い捨てて帰るらしいから、お浜もそこを起きようとすると、
「その宇津木兵馬とやらはどこにいる」
立つ芹沢に問いかけたのは竜之助です。
「それは明かされぬ、それを明かしてはあったら[#「あったら」に傍点]少年が返り討ちになる。しかし、御用心御用心」
「うむ――」
竜之助は押返して問うことをしなかったと見えます。
三
「与八さん、わたしはこのお邸で死ぬか、そうでなければこのお邸を逃げ出すよりほかに道がなくなりました」
とうとう我慢がしきれずに、お松は夜業《よなべ》をしている与八のところへ来てホロホロと泣きました。仕事の手を休めて聞いていた与八は、
「逃げ出すがよかんべえ」
突然《いきなり》にこう言い出して、やがてあとをつづけて言うには、
「俺《おら》もお前様に力をつけて辛抱《しんぼう》するように言ってみたあけれど、どっちにしてもこのお邸は為めになんねえお邸だ、いっそのこと、逃げ出した方がいいだ」
「それでは与八さん、わたしは直ぐにこれから逃げ出しますから誰にも黙っていて……」
「お前様が逃げ出すなら俺《おら》も逃げ出すから、一緒に逃げべえ」
「与八さん、お前が一緒に逃げてくれる?」
これはお松にとっては百人力です。こうして二人は、風儀の悪い旗本神尾の邸を脱け出す相談がきまってしまいました。
与八と、みどりとは、その晩、首尾《しゅび》よく神尾の邸を脱け出して、
「与八さん、どこへ行きましょう」
「沢井の方へ行くべえ、あっちへ行けば俺《おら》が知っている人がいくらもあるだ」
伝馬町を真直《まっすぐ》に、二人は甲州街道を落ちのびようというつもりでした。二人ともあまり地理に慣れないものですから、道を反対に取違えてしまって小石川の水戸殿の邸前《やしきまえ》へ出てしまったのです。
「こりゃ違ったかな、こんな坂はねえはずだが」
お茶の水あたりへ来た時に与八はやっと気がついて、
「何でもいい、行けるだけ行ってみべえ」
昌平橋と筋違御門《すじかいごもん》との間の加賀原《かがっぱら》という淋しいところへ来ると、向うから数多《あまた》の人と提灯《ちょうちん》、どうも役人らしいので与八も困って前後を見廻
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