これへ出し候え」
「相手を出すに及び申さぬ、この一心斎が見分《けんぶん》に不服があらば申してみられい」
「申さいでか。突いて来た刀を前に進んで外《はず》し面を打った刀、何と御覧ぜられし、老眼のお見損《みそこな》いか」
試合は変じて審判と剣士との立合となったので、並みいる連中は安からぬ思い。
しかしこの勝負はいかにも竜之助の言い分通り、或いは一心斎の見損いではあるまいか、老人なんと返事をするやらと気遣《きづか》えば、一心斎は平気なものでカラカラと笑い、
「分けたあとの出来事はこちの知ったことでない、老眼の見損いとは身知らずのたわごと」
分ける、突く、打つ、その三つの間に一筋の隙《すき》もないようであるが、分けて考えれば三つになる。
竜之助も口を結んで老人の面を見ていたが、
「しからば再勝負を所望《しょもう》する」
「奉納の試合に意趣は禁物」
一心斎が取合わぬのを竜之助は固く執《と》って屈せず、
「未練がましき勝負はかえって神への非礼、ぜひに再試合所望」
明快な勝負をつけねば決してこの場を去らずという憎々しい剛情を張っているが、一心斎もまた肯《き》かぬ気の一徹者《いってつもの》で、
「再試合なり申さぬ、強《た》ってお望みならば愚老が代ってお相手致そうか」
「これは近ごろ面白い」
竜之助は冷やかな微笑を浮べて、
「富士浅間流の本家、中村一心斎殿とあらば相手にとって不足はあるまい、いざ一太刀の御教導を願う」
「心得たり、年は老いたれど高慢を挫《くじ》く太刀筋は衰え申さぬ」
武芸者気質《ぶげいしゃかたぎ》で、一心斎は竜之助の剛情が赫《かっ》と癪《しゃく》に触ったものですから、自身立合おうという。飛んだ物言《ものいい》になったが、事は面白くなった。ほんとに立合がはじまったらそれこそ儲《もう》けものと、一同は手に汗を握っていると、
「机氏、机氏、控えさっしゃれ」
たまり兼ねて言葉をかけたのは甲源一刀流の本家、逸見利恭です。
十四
逸見利恭《へんみとしやす》は甲源一刀流の家元で、机竜之助ももとこの人を師として剣道を学んだものでありますから、師弟の浅からぬ縁があるのです。
そもそも一刀流の本源をたずぬれば、その開祖は伊豆の人、伊藤一刀斎|景久《かげひさ》で、その衣鉢《いはつ》を受けたのが神子上典膳忠明《みこがみてんぜんただあき》(小野治郎左衛門)です。この人、柳生《やぎゅう》と相並んで、徳川将軍の師範をつとめたほどの名人で、その子小野治郎左衛門忠常が小野派一刀流、伊藤典膳|忠也《ただなり》が忠也派一刀流を打出し、ことに忠也が父忠明より開祖一刀斎の姓と瓶割刀《かめわりとう》とを許される。それを嗣《つ》いだのが忠明以来の高弟亀井平右衛門|忠雄《ただお》で、これがまた伊藤を名乗る。忠雄の次が新たに溝口《みぞぐち》派の名を残した人、溝口五左衛門正勝というものであります。
武蔵国《むさしのくに》秩父小沢口の住人《じゅうにん》逸見太四郎義利は、この溝口派の一刀流を桜井五助長政というものに就《つ》いて学び、ついにその奥義《おうぎ》を究《きわ》めて、ここに甲源一刀流の一派を開き関東武術の中興と謳《うた》われたので、逸見利恭は、その正統を受けた人ですから、机竜之助の剛情我慢を見兼ねて控えろと抑《おさ》えたのは当然の貫禄《かんろく》があります。
「検審に向い近ごろ過言《かごん》なり、早々刀を引き候え」
逸見を囲んでいた門下の連中は、一方には宇津木文之丞を介抱《かいほう》する、その他の者は刀に手をかけて、眼を瞋《いか》らして竜之助を睨《にら》んで、いざといわば飛びかからん気色《けしき》に見えます。
竜之助はこの体《てい》を見て、例の切れの長い白い光のある眼の中に充分の冷笑をたたえて、なんともいわず身をクルリと神前に向けて一礼し、左手《ゆんで》に幔幕を上げてさっさと引込んでしまいました。
宇津木文之丞の面上に受けた木刀は実に鋭いもので、ほとんど脳骨を砕かれているのですが、さすがにその場へ打倒れる醜さを嫌《きら》い、席まで飛び込んで師の蔭に打伏したが、その時はモウ息が絶えていたのです。
机竜之助は試合とは言いながら、宇津木文之丞を打ち殺してしまったので、無慈悲残忍を極めた立合の仕方であるが、これは文之丞の方で最初しかけて行ったのは明らかで、もしも文之丞があの諸手突《もろてづ》きが極《きま》ったならば、竜之助の咽喉笛《のどぶえ》を突き切られて、いま文之丞が受けた運命を自分が受けねばならぬ。あの場合、文之丞がナゼあんな烈しい突きを出したか、あれはやはり人を殺すつもりでなければ出せない突きです。してみれば文之丞の立合い方もまた不審千万《ふしんせんばん》で、無慈悲残忍の一本槍《いっぽんやり》で竜之助を責めるわけにはゆかないのです。
よって竜之助の剛情我慢を憎むものも暫く口を噤《つぐ》んで、そのあと二番で終る試合の済むのを待っています。
あとの試合には頓着《とんちゃく》なく、机竜之助は、いったん控えの宿へ引取って着物を着換え、夕餉《ゆうげ》を済ましてから、また宿を出て雲深き杉の木立を分けて奥《おく》の宮道《みやみち》の方へブラリと出かけました。
十五
随神門《ずいしんもん》を入って、霧《きり》の御坂《みさか》を登り、右の小径《こみち》を行くと奥の宮|七代《ななよ》の滝へ出る道標があります。御岳山の地味は杉によろしく、見ても胸の透《す》く数十丈の杉の木が麓から頂まで生え上っている中に、この霧の御坂から七代の滝へ下るまでの間は特に大きなものであります。竜之助がこの中へ入ると、雲も霧もまた一緒に捲《ま》き込んで行く。
見返れば社殿に上げられた篝火《かがりび》、燈籠《とうろう》の光はトロリとして眠れるものの如く、立ち止まって見るとドードーと七代の滝の音が聞ゆる。
立ち尽していると頭上《ずじょう》で御祈祷鳥が鳴く、御岳山の御祈祷鳥は高野《こうや》の奥に鳴くという仏法僧。
ふと、霧の御坂の方から人の足音がする。
「竜之助様か」
それは女でした。宇津木文之丞が妻の声でした。
「お浜どのか」
「あい」
「…………」
「御用心あそばせ、暗討《やみうち》がありまする」
「暗討?」
「お前様を討とうとて同流の手利《てきき》が五人、ただいま宿を出てこれへ参りまする」
女の触れた手は熱かったが耳につけた口の息は火のようです。
「お浜どの、ここはあぶない、あれに隠れて」
目の前なる塞《さい》の神《かみ》の社《やしろ》を指《さ》しますと、
「竜之助様、あなたは斬死《きりじに》をなさる気か」
お浜は竜之助の行手《ゆくて》を遮《さえぎ》るようにして、
「あなたがここで斬死をなさるなら、その前にわたしを殺して」
「なに?」
「文之丞は死にました」
お浜の声は震《ふる》えて低い。
「宇津木の妻は去られて来ました」
竜之助はなんとも言いません。
「どこへ行きましょう」
御祈祷鳥がまた鳴く。
「甲州へは帰られません」
お浜の身は寛《ゆる》く、そして強くだんだんに竜之助の身を圧《お》して来ます。
御祈祷鳥がまたホーホーと鳴く。
「不如帰《ほととぎす》ではないかしら」
お浜はわざと身を横にして杉の木立を仰ぎます。
「竜之助様、なんとかおっしゃって下さい」
竜之助はまだなんとも言いません。
「あなたは刀にお強いように、女にもお強いか」
お浜の髪の毛が竜之助の首のあたりにほつれる。竜之助は無言《むごん》。
夜はいよいよ静かで七代の滝の音のみ爽《さわや》かに響き渡ります。
霧の御坂でまたしても人の声。
「ああ人が来ます、敵が来ます」
竜之助は勇躍する。
「逃げましょう、逃げましょう、死ぬのはいやいや、逃げて二人は生きましょう」
お浜は身を以て竜之助にすがりつく。
雲と霧とが濛々《もうもう》として全山をこめた時、剣鳴《つるぎな》りがする。二人の姿はそこから消えてしまいました。
十六
本郷元町《ほんごうもとまち》に土蔵構えのかなりな呉服屋があって、番頭小僧とも十人ほどの頭が見え、「山岡屋」と染め抜いた暖簾《のれん》の前では小僧がしきりに打水《うちみず》をやっていると、
「御免下さいまし」
入って来たのは百姓|体《てい》の男で、小さい包を抱え、十一二になる小娘を連れていましたのは、あれから一カ月ばかり後のことでしたが、二人とも見たようなと思わるるも道理、男は武州青梅の裏宿《うらじゅく》の七兵衛で、娘は巡礼の子お松でありました。
「いらっしゃい……」
お客と思って一斉にお世辞をふりかけると、七兵衛は丁寧に頭を下げて、
「あの、こちら様は山岡屋久右衛門様でござりましょうな」
「はい、手前は山岡屋久右衛門でござい」
小僧はいささか拍子抜けの体《てい》でポカンと立っていると、
「手前は武州青梅から参りましたが、旦那様なり奥様なりにお眼にかかりとう存じまして」
「旦那様か奥様にお眼にかかりたいって、いったいお前さん、何の御用だえ」
「ヘエ、実は御当家の御親類のお娘子《むすめご》をお連れ申しましたので」
小僧は怪訝《けげん》な面《かお》をして、七兵衛とお松の面を等分に見比べておりますと、帳場にいた番頭が口を出して、
「手前どもの親戚《しんせき》の娘子をお連れ下さいましたとな」
「はい、以前本町に刀屋を開いておいでになった彦三郎様のお嬢様と申せば、旦那様にも奥様にもおわかりになるそうで、このお娘御《むすめご》がそれでございます」
七兵衛はお松を引合わせると、番頭は変な面《かお》をしていましたが、小僧を呼んで、
「長松、なんせ旦那様はお留守《るす》だから奥様にそう申し上げて来な、青梅在のお百姓さんが、本町の彦三郎さんのお娘御をお連れ申してお目にかかりたいと申しておりますって、ね、いいか」
「は――い」
小僧は気のない返事をして奥の方へ行きました。
「まあお掛け……」
番頭が月並の愛想で火鉢を出すのをきっかけに、七兵衛は店先へ腰を下ろして、煙草をぷかりぷかりやりながら落着いているうちにも、お松はなんとなくおどおどした様子で、七兵衛のかげに小さくなっていると、さいぜんの小僧が出て来て突っ立ったなり、不愛想《ぶあいそう》極《きわ》まる面付《かおつき》をしながら、
「番頭さん、お内儀《かみ》さんのおっしゃるにはねえ、本町の刀屋さんなんてのは聞いたことも見たこともないって。だからそのお娘さんなんて方には近づきがないから、どうかお帰りなすって下さるように、そう申し上げて下さいと」
これを聞いた七兵衛とお松はハッと面を見合せましたが、お松が進み出でて、
「そんなはずはないのよ」
面を真赤にして眼は潤《うる》みきって、
「そんなはずはありませんよ、こちらのお内儀《かみ》さんは、わたしのお母さんの姉さんだもの、面を見ればわかるのよ」
お松は精一杯《せいいっぱい》にこのことを主張します。番頭と小僧はさげすむような面をして二人を見ていますのを七兵衛は、
「この娘さんもあのように申します、奥様に一度お目にかかればすぐおわかりになりましょう」
「だって、お内儀さんが知らないとおっしゃるものを仕方がないじゃないか」
小僧は口を尖《とが》らします。
「伯母さんに会えばすぐわかるのよ、小さい時お芝居へ連れて行っていただいたこともあるのだもの」
七兵衛はお松の説明のあとをついで、やはり律儀《りちぎ》な百姓の口調《くちょう》で、
「実は、このお娘御とおじいさんとが甲州裏街道の大菩薩峠と申しまするところでお難儀をなすっているところを、私が通りかかってお連れ申したわけで、このお娘さんも頼《たよ》る方《かた》といっては、こちら様ばかりだそうで、いかにもお気の毒ですから御一緒にやって参りましたわけで、どうかもう一度、奥様にお取次を願います」
克明《こくめい》に頭を下げて頼むので、番頭は飛んだ厄介者《やっかいもの》と言わぬばかりに小僧に顋《あご》を向け、
「では、モ一遍お内儀さんにそのことを申し上げてみな」
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