ひときわ》じっと静まり返って、しばらく天地が森閑《しんかん》として冴《さ》え渡ると、
「エイ!」
たがいの気合が沸《わ》き返る、人は繚乱《りょうらん》として飛ぶ、火花は散る、刃は閃《ひらめ》く、飛び違い走《は》せ違って、また一際《ひときわ》納まった時、寄手《よせて》の人の影はもう三つばかりに減っています。
島田虎之助はと見れば、これは前と変らず平青眼。
地に斃された人の数はこの時すでに十一を数えられて、そして残るところの新徴組は都合《つごう》四人。この四人はみな名うての者です。
机竜之助と共に高橋伊勢守に当る手筈であった岡田弥市というのは小野派一刀流で、そのころ有数の剣客です。いまひとり加藤|主税《ちから》というは溝口《みぞぐち》派で、有名な道場荒し、江戸中に響いていた達者で剛力《ごうりき》です。いざや島田を斃すは我一人と、井上|真改《しんかい》の太刀を振り翳《かざ》して飛び込んで来たのを、島田虎之助の志津三郎は軽くあしらって発止《はっし》と両刀の合うところ、ここに鍔競合《つばぜりあい》の形となりました。
加藤主税は炎《ほのお》を吐くような呼吸と雷《いかずち》のような気合で、力に任せて鍔押しに押して来ると、島田虎之助はゆるゆると左へ廻る。とにもかくにも、今までの斬合いで島田と太刀を合せて鍔競合まで来たのは加藤ひとりです。それを見ていた岡田弥市は何と思ったか、太刀を振りかぶってちょうど島田虎之助の背後《うしろ》へ廻り、やッと拝《おが》み討《うち》。
見ていた高橋伊勢守がこの時はじめてひやり[#「ひやり」に傍点]としました。
島田虎之助は前後に剛敵を受けてしまったのです。前なる加藤主税がエイと一押し、鍔と鍔とが揉砕《もみくだ》けるかと見えたるところ、
「エイ!」
組んだる太刀が島田の気合で外《はず》れたかと思えば電光|一閃《いっせん》、
「うむん――」
井上真改の一刀は鍔元《つばもと》から折れて彼方《かなた》に飛び、水もたまらず島田の一刀を肩先に受けて、凄《すさ》まじき絶叫をあとに残して雪に斃れる。それと間髪《かんはつ》を容《い》れず後ろから廻った岡田弥市の拝み討。島田虎之助は、加藤主税を斬ったる刀をそのまま身を沈めて斜横《しゃおう》に後ろへ引いて颯《さっ》と払う。理窟も議論もない、人間を腹部から上下に分けた胴切《どうぎ》りです。
一太刀を以て前後の敵を一時に斬る、これを鬼神の働きと言わずして何と言おう、高橋伊勢守がこの時はもうすっかり島田の手腕に敬服してしまって、ここは剣ではない禅であると、生涯歎称して已《や》まなかったとのこと。
机竜之助は何をしている。心おくれたか、逃げ出したか。いやいや、まださいぜんのところに立っている。竜之助が出なければ、残るところは大将の土方歳三ただ一人です。
土方歳三もかねて島田の噂《うわさ》は聞いていたが、これほどの人とは思わなかった。しかしこうなっても、持って生れた気象《きしょう》は屈することなく、透《す》かさず斬り込んで来た度胸《どきょう》には島田虎之助も感心しました。
「ははあ、あれが土方歳三じゃ」
高橋が清川を顧みて言う。
「いかにも土方、惜しいものじゃ」
清川八郎は土方歳三をよく知っている、日頃|一廉《ひとかど》の人物と見ているところから、ここで島田のために斬られることが、自業自得《じごうじとく》とは言いながら惜しいと思うのも人情です。
二人が土方の噂をしている途端《とたん》、
「おう――」
絶望の叫びで土方は島田のために太刀を打ち落されてたじろぐところを、犬の子を転《ころ》がすように引き倒され、起き上ろうとした時は、島田の膝は背の上にさながら盤石《ばんじゃく》を置いたようです。
「汝は何者じゃ」
「…………」
「名乗れ!」
「斬れ!」
「汝が主謀《しゅぼう》と見ゆる、血気に任せて要《い》らぬ腕立《うでだ》て、心なくもこの島田に殺生《せっしょう》させた、ここに枕を並べた者共もみな一廉《ひとかど》の剣術じゃ、むざむざ犬死《いぬじに》させて何と言訳《いいわけ》が立つ、愚者《おろかもの》め」
「一生の不覚、一生の不覚」
土方歳三は血の涙をこぼして、
「幼少より剣を学んで……御身ほどの達人を見分ける眼がなかったは……それが残念!」
島田虎之助はこの時、抑《おさ》えた膝を寛《ゆる》めて、
「剣は心なり、心正しからざれば剣も正しからず、剣を学ばん者は心を学べ」
こう言いながら土方歳三の襟髪《えりがみ》を取って突き放すと、よろよろと彼方《かなた》に飛んで※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》と倒れます。
三十二
高橋と島田と清川とが談笑しつつ行く後ろ影を見送って、やはり呆然として立っているのが机竜之助でした。
竜之助は術も魂も打込んで見惚《みと》れてしまったのです。前にも後にもこのような鮮やかな手筋を見たことがない、見ようとて見られるわけのものでもない。最初にはなにを島田が! 次には、ああ思ったより冴《さ》えた腕! その次は凄《すご》い! 最後には神か人か!
だんだんに変化して行く心のうつり目が、かの前後の敵を一刀に斬り捨てたところに至って言句も思慮も及ばなくなりました。そうして最後に到着した結論は「我ついにこの人に及ばず」です。
この結論は竜之助にとって生命をむしり[#「むしり」に傍点]取られるほどに辛《つら》い、けれども、どの手を行ってもこのほかに打つ手はない。
この時ようよう起き上ったのが土方歳三で、彼は悲憤の涙で男泣きの体《てい》です。打ち落された刀を拾い取って同志十三人の死屍《しし》縦横たる中へ坐り直し、刀を取り直して腹に突き立てようとする。
愕然《がくぜん》として醒《さ》めた机竜之助は、走り寄って土方の刀を押えます。
底本:「大菩薩峠1」ちくま文庫、筑摩書房
1994(平成6)年12月4日第1刷発行
1996(平成8)年3月10日第5刷
底本の親本:「大菩薩峠」筑摩書房
1976(昭和51)年6月初版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:(株)モモ
校正:原田頌子
2001年5月8日公開
2004年2月22日修正
青空文庫作成ファイル:
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