こう言いながら、前に住んでいた人がこしらえておいた仏壇の方へ立って行こうとするのを、竜之助はこらえ兼ねた気色《けしき》で、
「これ浜、少し待て」
「お線香を上げては悪いのですか」
「そこへ坐れ」
「はい」
「お前は了見《りょうけん》の悪い女じゃ」
「はい、もとより悪い女でござんす、悪い女なればこそこうしてみじめな……」
「身を誤ったはお前ばかりではない、この机竜之助もお前のために身を誤った、所詮《しょせん》、悪縁と諦《あきら》めがつかぬものか」
「悪縁……もう疾《と》うの昔に悪縁とは諦めておりますが」
「さあ、悪縁と思えば辛抱の仕様もある、わしもお前からさんざんの嫌味《いやみ》を並べられ、人でないようにこき下ろされても、悪縁と思えばこそ何も言わぬ」
「悪縁なら悪縁のように少しは浮いた花やかな暮しもあろうものを、お前様と添うて四年越し、ついぞホッとした息をついたことがない」
 お浜はつんと横を向いて、
「ああ、文之丞殿と添うていたら」
 この一語は竜之助の堪忍《かんにん》の緒《お》をふっと切ったようです。
「浜、そういうことが今更わしの前で言えるか」
 竜之助の唇がピリリと顫《ふる》えます。
「はい、どこでも申します、今となってわたしは文之丞が恋しい」
「ナニ!」
「あのまま添うていたら、この子にもこんな苦労をさせずに済もうものを」
 お浜はハラハラと涙をこぼします。
「うむ――」
 竜之助は憤《いきどお》りを腸《はらわた》まで送り返すために拳《こぶし》にまで力が入って、
「よう、あの頃のことを考えてみい、罪はわしにあるか、ただしお前にあるか」
「さあ、水車小屋で手込《てごめ》にした悪者は誰でしょう」
 お浜は後《おく》れ毛《げ》をキリリと噛《か》み切って、
「あれが悪縁のはじまり、あのことさえなくばわたしは宇津木文之丞が妻で、この子にもこんな苦労はさせず」
「ああ、女は魔物じゃ」
 ここに至って竜之助は女の怖るべきことを初めて悟ったかの如く、深い歎息のほかには言句《ごんく》も継《つ》げなかった有様でしたが、ややあって独言《ひとりごと》のように、
「おれが方から言えば、あの試合に殺気を立てたのはみんな浜という女のなす業《わざ》じゃ、文之丞が突いた捨身《すてみ》の太刀先《たちさき》には、たしかに恋の遺恨《いこん》が見えていた、それを打ち返したこっちの刀にも悪女の一念が乗り移っていたに違いない、事の行きがかりはみな浜という女の一念から起る」
「ようもまあ、そんなことが」
 お浜は飛びつくように詰め寄せて、
「お前様というものがなければ文之丞は無事、わたしも無事、宇津木の家にも机の家にも、何の騒ぎも起るまいに、それをみんなわたしのなす業とは、どうしてまあ、そんなことがお前様の口から……」
「いいや、お前という魔物のなす業に違いない」
「まあまあ、わたしが魔物!」
「宇津木文之丞を殺したも、机竜之助が男を廃《すた》らせたも、あれもこれもみな浜、お前の仕業《しわざ》に違いない」
「まあ、あれもこれもみなわたし?」
「それに違いない、お前の怖ろしさがいま知れた」
 竜之助は騎虎の勢いで、言うだけ言ってのけるほかはなかったので、お浜は狂乱の体《てい》にまでのぼせ上り、
「おお、よくおっしゃった、わたしが悪魔なら、どこまでも悪魔になります」
 郁太郎《いくたろう》を投げ出して竜之助の脇差を取るより、
「坊や、お前も死んでおくれ、わたしも」
 竜之助はその手を厳《きび》しく抑えた。郁太郎は火のつくように泣き叫びます。
「死ぬとも生きるとも勝手にせよ」
 竜之助は脇差を奪い、刀を取って腰に差し、編笠《あみがさ》を拾ってかぶるなり縁側からふいと表へ出てしまいました。

         二十三

 どこをどうして来たか机竜之助は、その日、夕陽《ゆうひ》の斜めなる頃、上野の山下から御徒町《おかちまち》の方を歩いていました。
 ふと、鼓膜に触れた物の音で、呆然《ぼうぜん》と歩いていた竜之助はハタと歩みを留めたのでありました。
 見上ぐればそこには卑《いや》しからぬ構えの道場がある。その中からは戞々《かつかつ》と響き渡る竹刀《しない》の音、それと大地を突き透《とお》す気合の叫びが、おりおり洩れて来るのです。
 ああ竹刀の音、気合の声、それを忘れてよいものか。竜之助は釘付《くぎづ》けられたように立ちつくして、そうして道場の武者窓のあたりへと近寄りました。
 その道場の表札も古く黒ずんで、道場の主が果して何者であるやもよくわからなかったけれども、好きな道で我を忘れて武者窓から編笠越しにのぞき込むと、主座に坐っているのは五十ぐらいの年配で、色の少し黒い、頬骨《ほおぼね》がやや高くて、口は結んで、脊梁骨《せきりょうこつ》がしゃんと聳《そび》え、腰はどっしりと落
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