ら番町の旗本の片柳《かたやなぎ》という叔父の家に預けられていたのが、このたびの変を聞くと無分別に叔父の家を脱《ぬ》け出して兄の家へ帰ろうとして、ここまで飛んで来て、疲れ切ったところを、悪者に脅《おびやか》されたものでありました。
宇津木兵馬と聞いて馬子が驚きの意味ありげなのを見て、
「馬子どの、お前もあちらの人か」
「エエわしも」
といったが与八はポキリと言葉の端《はし》を折って、一丁ほどは物を言いませんでした。兵馬も再び尋ねなかったが、やがて与八は、
「お前様のお兄様の文之丞様というお方も、運の悪いお人だ」
「兄上のことを御承知か」
「はあ、よく知ってますだ」
「そんなら机竜之助のことも」
「はあ、その竜之助様のことも」
「してみれば、五月五日の試合のことも知ってであろうがな」
「はあ、その事もあの事もみんなようく知ってますだが……」
「そうか、それは幸い。あの試合で兄上と竜之助の勝負は」
兵馬の意気込むにつれて与八はしょげ返り、
「あの勝負は竜之助様が勝って文之丞様が負けた」
「尋常の勝負ではなかったはず」
「尋常の勝負どころか、お前様、飛んでもねえ勝負でござんす、お前様のお兄様のことだからずいぶん腹も立つべえけれど、俺も悲しいやら口惜《くや》しいやら……」
与八は泣き出してしまいました。
「なにも泣くことはあるまい、お前の身にはかかり合いのないことだ」
「わしにかかり合いのねえどころか、大有りでさあ」
「お前に……あの試合が?」
「何も言わねえ、試合のことなんざあ忘れちまった方がよかんべえ」
「それが忘れられるものか、それがためにわしは江戸を抜け出して兄上の仇討《あだうち》に出て来たのだものを」
「お前様が仇討に――誰を敵《かたき》にお討ちなさるだ」
「机竜之助を」
「机竜之助様を?」
与八が振向いた時、馬上の兵馬は御岳山の方を見やる眼許《めもと》より雫《しずく》が頬を伝うて流れるのを見かけます。
二十
七兵衛とお松とを店頭《みせさき》から追い払ったその晩のことです。
主人は商用で上方《かみがた》へ行ったというにもかかわらず、山岡屋の女房のお滝は、ニヤけた若い男を傍に置いて、夜も大分|更《ふ》けてゆくのにしきりに酒を飲んでいると、
「あ、人の足音」
「猫でも来たのだろうよ」
「でも、今のはたしかに人の足音でございましたよ」
「度胸のない人だねえ、そんなにおどおどしてさ。あけてごらん」
「おや」
そこにはまさしく人が立っていたので、
「あれ、お前さんは誰だえ」
「誰でもございません、さきほど店前《みせさき》で追っ払いを食いました百姓で……」
「ええ!」
「まず御免なせえまし」
そこへ入り込んで、どっかと胡坐《あぐら》をかいて黒い頭巾《ずきん》を投げ出したのは、なるほど裏宿《うらじゅく》の七兵衛でありました。
七兵衛は懐《ふとこ》ろへ手を入れて、短刀を出して、刃先を前に向けてブツリと畳へ突き通します。
「お、お金がお入用《いりよう》ならいくらでも差上げますから――どうぞ――どうぞ命ばかりは……」
「お内儀《かみ》さん、お前さんはよく金々と言いなさる、さきほども大枚のお金をわっしに下すったが、その時も申し上げた通り、金が欲しくって上ったわけじゃござんせん」
「そんなら品物を何でも、お好きな物をお持ちなすって……ただいま土蔵へ案内を致させますから」
「くどいやい、今夜は盗みに来たんじゃねえ」
お滝は慄《ふる》え上りながら、やっと気がついたらしく、
「ああ、わかりました、わかりました。さっきお話の本町の彦三郎の娘のこと、つい小僧から又聞《またぎ》きでございまして、まことに失礼を致しました。たしかにわたくしの姪《めい》に相違ございません……よく――よくお連れ下さいました、早速《さっそく》手前どもで引取りまして、実の子のようにしてお育て申します、どうかそれにて御勘弁を。はい、小僧めがいいかげんなことを申しますので、ついどうも飛んだ失礼を申しました……」
「遅いやい遅いやい、いまさら夜迷言《よまいごと》をぬかすな、あの子はあとあとの苦情のねえように、ようく念を押しておれが貰《もれ》え受けたんだ、お前《めい》たちに縁もゆかりもねえ」
「それでは養育料としまして」
「馬鹿め、縁もゆかりもねえものに養育料が要《い》るか」
「どうぞ命ばかりはお助け――」
「命まで取ろうとは言わねえ」
「それでは命をお助け下さる……」
「命は助けてやるめえものでもねえが、ただじゃ帰れねえ」
「それではお金を……」
「金は要らねえ」
「では……」
お滝は絶体絶命の体《てい》を、七兵衛は冷《ひや》やかに笑って、
「山岡屋のお内儀さん、わっしはほかに望みはねえ、お前さんに恥をかかしに来た」
「恥を……」
お滝は唇の色まで真
前へ
次へ
全37ページ中20ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング