い、人情知らずと申すもの……」
 涙をたたえた怨《うら》みの眼に、じっとお浜は竜之助の面《おもて》を見やります。
 竜之助の細くて底に白い光のある眼にぶつかった時に、蒼白かった竜之助の顔にパッと一抹《いちまつ》の血が通うと見えましたが、それも束《つか》の間《ま》で、もとの通り蒼白い色に戻ると、膝を少し進めて、
「これお浜どの、人情知らずとは近ごろ意外の御一言、物に譬《たと》うれば我等が武術の道は女の操《みさお》と同じこと、たとえ親兄弟のためなりとて操を破るは女の道でござるまい。いかなる人の頼みを受くるとも、勝負を譲るは武術の道に欠けたること」
「それとても親兄弟の生命《いのち》にかかわる時は……」
「その時には女の操を破ってよいか」

         六

 宇津木の妹を送り出したのは夕陽《ゆうひ》が御岳山の裏に落ちた時分です。しばらくして竜之助の姿を、万年橋の下、多摩川の岸の水車小屋の前で見ることができました。
「与八! 与八!」
 夜は水車が廻りません、中はひっそりとして鼠の逃げる音、微《かす》かな燈火《ともしび》の光。
「誰だい」
 まだるい返事。
「竜之助だ、ここをあけろ」
「へえ、今……」
 やや狼狽の体《てい》。やがて中からガラリと戸が開かれると、面《かお》は子供のようで、形は牛のように肥《ふと》った若者です。
「与八、お前に少し頼みがあって、お前の力を借りに来た」
「へえ」
 この若者は、竜之助を見ると竦《すく》んでしまうのが癖《くせ》です。
「与八、お前は力があるな、もっとこっちへ寄れ」
 耳に口をつけて何をか囁《ささや》くと、与八は慄《ふる》え上って返事ができない。
「いやか」
「だって若先生」
「いやか――」
 竜之助から圧迫されて、
「だって若先生」
 与八は歯の根が合わない。
「俺《おれ》をお斬りなさる気かえ」
「いやか――」
「行きます」
「行くか」
「行きます」
「よし、ここに縄もある、手拭もある、しっかり[#「しっかり」に傍点]やれ、やりそこなうな」

         七

 竜之助の父|弾正《だんじょう》が江戸から帰る時に、青梅近くの山林の中で子供の泣き声がするから、伴《とも》の者に拾わせて見ると丸々と肥った当歳児であった、それを抱き帰って養い育てたのがすなわち今日の与八であります。与八という名もその時につけられたのですが、物心《ものごころ》を覚えた頃になって、村の子供に「拾いっ子、拾いっ子」と言って苛《いじ》められるのを辛《つら》がって、この水車小屋へばかり遊びに来ました。その時分、水車番には老人が一人いた、与八はその老人が死んだ時はたしか十二三で、そのあとを嗣《つ》いで水車番になったのです。
 与八の取柄《とりえ》といっては馬鹿正直と馬鹿力です。与八の力は十二三からようやく現われてきて、十五になった時は大人の三人前の力をやすやすと出します。十八になった今日では与八の力は底が知れないといわれている。荷車が道路へメリ込んだ時、筏《いかだ》が岩と岩との間へはさまった時、そういう時が与八の天下で、すぐさま人が飛んで来ます。
「与八、米の飯を食わせるから手を貸してくれやい」
「うん」
 そして、大八車でも杉の大筏でも、ひとたび与八が手をかければ、苦もなく解放される。お礼心に銭《ぜに》などを出しても与八は有難《ありがた》がらない、米の飯を食わせれば限りなく悦《よろこ》ぶ、それに鮭《さけ》の切身でもつけてやろうものなら一かたげ[#「かたげ」に傍点]に三升ぐらいはペロリと平《たいら》げてしまいます。米の飯を食わせなくても、与八がそんなに不平を言わないのは、小屋へ帰れば麦の飯と焼餅とを腹いっぱい食い得る自信を持っているからであるが、ずるい奴が、米の飯を食わせる食わせるといってさんざん与八の力を借りた上、米の飯を食わせずに済《す》まそうとする、二度三度|重《かさ》なると与八は怒って、もう頼みに行っても出て来ない、その時は前祝いに米の飯を食わせると、前のことは忘れてよく力を貸します。
 与八が村へ出るのをいやがるのは、前申す通り子供らがヨッパだの拾いっ子だの言って、与八が通るのを見かけていじめるからです。それで水車小屋の中にのみ引込んでいるが、感心なことには、毎朝欠かさず主人弾正の御機嫌伺《ごきげんうかが》いに行きます。
「大先生《おおせんせい》の御機嫌はいいのかい」
 女中や雇男《やといおとこ》が、
「ああ好いよ」
と答えると、にっこり[#「にっこり」に傍点]して帰ってしまう。竜之助の父弾正は老年の上、中気《ちゅうき》をわずらって永らく床に就いています。

 竜之助から脅迫《きょうはく》されて与八が出て行くと、まもなく万年橋の上から提灯《ちょうちん》が一つ、巴《ともえ》のように舞って谷底に落ちてゆく。暫《し
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