の女の子――今「お爺さん」と呼んだのは、この女の子の声でありました。
右の二人づれの巡礼の姿を認めると、何と思うてか武士は、つと妙見堂のうしろに身をかくします。木の上では従前の猿が眼を円くする。
「やれやれ頂上へ着いたわい、おお、ここにお堂がござる」
年寄の方の巡礼は社の前へ進んで笠の紐を解いて跪《かしこ》まると、
「お爺さん、ここが頂上かい」
面立《おもだち》の愛らしい、元気もなかなかよい子でありました。
「これからは下り一方で、日の暮までに河内泊《かわちどま》りは楽なものだ、それから三日目の今頃は、三年ぶりでお江戸の土が踏める――さあお弁当をたべましょう」
老爺《ろうや》は行李《こうり》を開いて竹の皮包を取り出すと、女の子は、
「お爺さん、その瓢箪《ひょうたん》をお貸しなさい、さっきこの下で水音がしましたから、それを汲《く》んでまいりましょう」
「おおそうだ、途中で飲んでしまったげな。お爺さんが汲んで来ましょう、お前はここで休んでおいで」
腰なる瓢箪を抜き取ると、
「いいのよ、お爺さん、あたしが汲んで来るから」
女の子は、老人の手から瓢《ふくべ》を取って、ついこの下の沢に流るる清水を汲もうとて山路《やまじ》をかけ下ります。
老人は空《むな》しくそのあとを見送って、ぼんやりしていると、不意に背後《うしろ》から人の足音が起ります。
「老爺《おやじ》」
それはさいぜんの武士でありました。
「はい」
老爺は、あわただしく居ずまいを直して挨拶《あいさつ》をしようとする時、かの武士は前後を見廻して、
「ここへ出ろ」
編笠も取らず、用事をも言わず、小手招《こてまね》きするので、巡礼の老爺は怖る怖る、
「はい、何ぞ御用でござりまするか」
小腰《こごし》をかがめて進み寄ると、
「あっちへ向け」
この声もろともに、パッと血煙が立つと見れば、なんという無残《むざん》なことでしょう、あっという間もなく、胴体《どうたい》全く二つになって青草の上にのめ[#「のめ」に傍点]ってしまいました。
三
「お爺《じい》さん、水を汲んで来てよ」
瓢箪を捧げた少女は、いそいそとかけて来たが、老人の姿の見えぬのを少しばかり不思議がって、
「お爺さんはどこへ行ったろう」
お堂の裏の方へでも行ったのかしらと、来て見ると、
「あれ――」
瓢《ふくべ》を投げ出し
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