です。
 よって竜之助の剛情我慢を憎むものも暫く口を噤《つぐ》んで、そのあと二番で終る試合の済むのを待っています。
 あとの試合には頓着《とんちゃく》なく、机竜之助は、いったん控えの宿へ引取って着物を着換え、夕餉《ゆうげ》を済ましてから、また宿を出て雲深き杉の木立を分けて奥《おく》の宮道《みやみち》の方へブラリと出かけました。

         十五

 随神門《ずいしんもん》を入って、霧《きり》の御坂《みさか》を登り、右の小径《こみち》を行くと奥の宮|七代《ななよ》の滝へ出る道標があります。御岳山の地味は杉によろしく、見ても胸の透《す》く数十丈の杉の木が麓から頂まで生え上っている中に、この霧の御坂から七代の滝へ下るまでの間は特に大きなものであります。竜之助がこの中へ入ると、雲も霧もまた一緒に捲《ま》き込んで行く。
 見返れば社殿に上げられた篝火《かがりび》、燈籠《とうろう》の光はトロリとして眠れるものの如く、立ち止まって見るとドードーと七代の滝の音が聞ゆる。
 立ち尽していると頭上《ずじょう》で御祈祷鳥が鳴く、御岳山の御祈祷鳥は高野《こうや》の奥に鳴くという仏法僧。
 ふと、霧の御坂の方から人の足音がする。
「竜之助様か」
 それは女でした。宇津木文之丞が妻の声でした。
「お浜どのか」
「あい」
「…………」
「御用心あそばせ、暗討《やみうち》がありまする」
「暗討?」
「お前様を討とうとて同流の手利《てきき》が五人、ただいま宿を出てこれへ参りまする」
 女の触れた手は熱かったが耳につけた口の息は火のようです。
「お浜どの、ここはあぶない、あれに隠れて」
 目の前なる塞《さい》の神《かみ》の社《やしろ》を指《さ》しますと、
「竜之助様、あなたは斬死《きりじに》をなさる気か」
 お浜は竜之助の行手《ゆくて》を遮《さえぎ》るようにして、
「あなたがここで斬死をなさるなら、その前にわたしを殺して」
「なに?」
「文之丞は死にました」
 お浜の声は震《ふる》えて低い。
「宇津木の妻は去られて来ました」
 竜之助はなんとも言いません。
「どこへ行きましょう」
 御祈祷鳥がまた鳴く。
「甲州へは帰られません」
 お浜の身は寛《ゆる》く、そして強くだんだんに竜之助の身を圧《お》して来ます。
 御祈祷鳥がまたホーホーと鳴く。
「不如帰《ほととぎす》ではないかしら」
 お浜はわざ
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