てワザワザこの峠へ廻ったということです。人気の険悪は山道の険悪よりなお悪いと見える。それで人の上《のぼ》り煩《わずら》う所は春もまた上り煩うと見え、峠の上はいま新緑の中に桜の花が真盛りです。
「上野原《うえのはら》へ、盗人《ぬすっと》が入りましたそうでがす」
「ヘエ、上野原へ盗人が……」
「それがはや、お陣屋へ入ったというでがすから驚くでがす」
「驚いたなあ、お陣屋へ盗賊が……どうしてまあ、このごろのように盗賊が流行《はや》ることやら」
 妙見《みょうけん》の社《やしろ》の縁に腰をかけて話し込んでいるのは老人と若い男です。この両人は別に怪しいものではない、このあたりの山里に住んで、木も伐れば焼畑《やきばた》も作るという人たちであります。
 これらの人は、この妙見の社を市場として一種の奇妙なる物々交換を行う。
 萩原から米を持って来て、妙見の社へ置いて帰ると、数日を経て小菅《こすげ》から炭を持って来て、そこに置き、さきに置いてあった萩原の米を持って帰る。萩原は甲斐を代表し、小菅は武蔵を代表する。小菅が海を代表して魚塩《ぎょえん》を運ぶことがあっても、萩原はいつでも山のものです。もしもそれらの荷物を置きばなしにして冬を越すことがあっても、なくなる気づかいはない――大菩薩峠は甲斐と武蔵の事実上の国境であります。
 右の両人は、この近まわりに盗賊のはやることを話し合っていたが、結局、
「どろぼうが怖《こわ》いのは物持《ものもち》の衆《しゅう》のことよ、こちとらが家はどろぼうの方で怖《おそ》れて逃げるわ」
ということに落ちて、笑って立とうとする時に、峠の道の武州路《ぶしゅうじ》の方から青葉の茂みをわけて登り来る人影《ひとかげ》があります。
「あ、人が来る、お武家様みたようだ」
 二人は少しあわて気味で、炭俵や糸革袋《いとかわぶくろ》が結びつけられた背負梯子《しょいばしご》へ両手を突っ込んで、いま登り来るという武家の眼をのがれるもののように、社《やしろ》の裏路を黄金沢《こがねざわ》の方へ切れてしまいます。

         二

 ほどなく武州路の方からここへ登って来たのは、彼等両人が認めた通り、ひとりの武士《さむらい》でありました。黒の着流しで、定紋《じょうもん》は放《はな》れ駒《ごま》、博多《はかた》の帯を締めて、朱微塵《しゅみじん》、海老鞘《えびざや》の刀|脇差《わきざ
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