敵を一時に斬る、これを鬼神の働きと言わずして何と言おう、高橋伊勢守がこの時はもうすっかり島田の手腕に敬服してしまって、ここは剣ではない禅であると、生涯歎称して已《や》まなかったとのこと。
 机竜之助は何をしている。心おくれたか、逃げ出したか。いやいや、まださいぜんのところに立っている。竜之助が出なければ、残るところは大将の土方歳三ただ一人です。
 土方歳三もかねて島田の噂《うわさ》は聞いていたが、これほどの人とは思わなかった。しかしこうなっても、持って生れた気象《きしょう》は屈することなく、透《す》かさず斬り込んで来た度胸《どきょう》には島田虎之助も感心しました。
「ははあ、あれが土方歳三じゃ」
 高橋が清川を顧みて言う。
「いかにも土方、惜しいものじゃ」
 清川八郎は土方歳三をよく知っている、日頃|一廉《ひとかど》の人物と見ているところから、ここで島田のために斬られることが、自業自得《じごうじとく》とは言いながら惜しいと思うのも人情です。
 二人が土方の噂をしている途端《とたん》、
「おう――」
 絶望の叫びで土方は島田のために太刀を打ち落されてたじろぐところを、犬の子を転《ころ》がすように引き倒され、起き上ろうとした時は、島田の膝は背の上にさながら盤石《ばんじゃく》を置いたようです。
「汝は何者じゃ」
「…………」
「名乗れ!」
「斬れ!」
「汝が主謀《しゅぼう》と見ゆる、血気に任せて要《い》らぬ腕立《うでだ》て、心なくもこの島田に殺生《せっしょう》させた、ここに枕を並べた者共もみな一廉《ひとかど》の剣術じゃ、むざむざ犬死《いぬじに》させて何と言訳《いいわけ》が立つ、愚者《おろかもの》め」
「一生の不覚、一生の不覚」
 土方歳三は血の涙をこぼして、
「幼少より剣を学んで……御身ほどの達人を見分ける眼がなかったは……それが残念!」
 島田虎之助はこの時、抑《おさ》えた膝を寛《ゆる》めて、
「剣は心なり、心正しからざれば剣も正しからず、剣を学ばん者は心を学べ」
 こう言いながら土方歳三の襟髪《えりがみ》を取って突き放すと、よろよろと彼方《かなた》に飛んで※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》と倒れます。

         三十二

 高橋と島田と清川とが談笑しつつ行く後ろ影を見送って、やはり呆然として立っているのが机竜之助でした。
 竜之助は術も魂
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