。
「はて誰だんべえ、あんなところに人のいるはずがねえ」
与八はつるべ縄へ掛けた手を休めて見ていると、その人の影は泉水《せんすい》の池のほとりから奥殿の廊下の方へと進んで行きます。泥棒《どろぼう》だ、泥棒に違えねえ、
「泥棒!」
与八が大きな声で叫ぶと、その声は外なる怪《あや》しの男よりも、家の中の大一座を驚かして、障子を蹴開《けひら》いて廊下へ走り出でます。
二十八
その翌日の朝、与八は竹箒《たけぼうき》で庭を掃いていますと、ほかの女中は昨夜の疲れで寝ているのに、みどりの部屋のみは障子があいて、もう起きているようです、それとも夜通し寝なかったものか。
それとは知らずに掃いて来た与八は、
「これは、みどり様、お早うございます」
箒の手を休めて、頬冠《ほおかぶ》りをちょいと外《はず》してお辞儀《じぎ》をする。
「与八さん、たいそう早く御精《ごせい》が出ますね」
「エエ、どう致しまして。わしらあ別に早いこともありましねえが、お前様《めいさま》こそエラク早起きで」
「昨夜《ゆうべ》は御苦労でしたねえ。まあ少し、ここでお休み」
みどりは障子をあけて親切に与八を労《いた》わり、
「お茶を一つおあがり」
茶と菓子とを縁側のところへ持って出ます。
「こりゃどうも恐れ入ります」
与八は大悦《おおよろこ》びで、
「お前様はいつも、わしらにそんなに親切をして下さるから有難えと思います、ほんとに済みましねえ」
悦びながら相当に遠慮をしているのを、
「さあそこへお掛け。与八さん、わたしはお前さんにお礼を言わねばなりませぬ」
「なんの、お前様にお礼を言われるようなことをすべえ、行届かねえ田舎者《いなかもの》ですから、面倒《めんどう》を見てやっておくんなさいまし」
与八は頬冠りを取って手拭を鷲《わし》づかみにして、しきりにお辞儀をしています。
「お茶がはいりました、遠慮をしないで」
「はい、どうも済みましねえでございます」
与八は、やっとのことで縁側へ腰をかけ、無器用《ぶきよう》な手つきをして、恐る恐る茶碗を取り上げておしいただきます。
「甘いものはお好きかえ、ここに羊羹《ようかん》があります」
「どうも済みましねえ、こんな結構なお菓子をいただいてどうも済みましねえ」
与八は片手に茶碗、片手に羊羹をいただいて、幾度もお礼を繰返す。
「与八さん、お前
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