っておいでのようでしたから……」
「可愛ゆい若衆《わかしゅ》でしたね」
お松はこう言われて、何のわけもなく真赤になりました。
お松は大菩薩峠で七兵衛に助けられたお松。それを前に呼び寄せて話しているのは、七兵衛の手からお松を預かった切髪《きりがみ》の年増《としま》でありました。
「それはそうと、明日はお邸へ上らなくてはなりませぬ」
「はい」
「お邸へ上りましたなら、かねて申してある通り、わたしに代って辛抱《しんぼう》して、殿様のお気に入るようにして下さい」
「わたしのような慣れないものが、お気に入るようになられましょうやら、それが心配でございます」
「殿様はお酒をおあがりなさるとお気が荒いけれど、平生《へいぜい》は親切なお方だから、御機嫌《ごきげん》の取りにくいことはありませぬ」
「お手荒《てあら》なことをなさることはございますまいか」
「まあそんなことがあっても、和《やわ》らかにとりなすのが御奉公と申すもの」
「それでも、かよわいわたくし風情《ふぜい》の力で殿様の御機嫌が直りませぬ時は……」
お松が心配そうに言うのを切髪の婦人は笑って打消し、
「なにも殿様が、きっと手荒いことをなさるときまったわけではなし、また朋輩《ほうばい》もたくさんあることだから……朋輩といえばお松や、殿様や家来方の御機嫌よりも朋輩同士の仲が小面倒《こめんどう》なのよ、よく気をつけないと嫉《ねた》まれたり憎《にく》まれたり――」
「わたしはそれも心配でございます」
「お殿様にもお気に入り、朋輩衆にも嫉まれず、それが女の腕というもの。まあ初陣《ういじん》と思うて乗り込んでごらん」
「お師匠様の御恩報じのつもりで、きっと勤めまする覚悟」
お松の頼もしい言葉は、お師匠様と呼ばれた切髪の婦人の心を非常に満足せしめたようでありましたが、やや小声になって、
「それにねお松や、お前が女中衆のうちでいちばん年も若いしするから、何でもまず殿様を丸めてしまわなくては……ホホホ、丸めるというと恐れ多いけれど、やっぱり何とかして殿様をこっちのものにするのさ、ね、おわかりかえ」
「まあ、わたしにそんなことが――」
耳まで真赤にしてお松が俯向《うつむ》くのを、
「ホントにお前はまだ子供で困ります」
お松がここで行けと言われている家は、四谷の伝馬町《てんまちょう》の神尾という三千石の旗本《はたもと》であります。こ
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