、兵馬はそれなりまた雨の降る勢いを見て立ちつくしています。
 わずかの小門の廂《ひさし》だけに身を寄せたのですから、好いあんばいに風は少し向うへ吹いて行く分のこと、袴《はかま》の裾や衣服の袂《たもと》には沫《しぶき》がしとしととかかります。と、くぐり戸ががらりとあいて、半身と傘の首だけを兵馬の前に突き出したのは以前の婆さんで、
「もし、あなた様、中へ入ってお休みなさいませ」
「はい、有難う存じまする」
「おっつけ晴れましょうから、どうぞ御遠慮なくお入りなさいませ」
「はい……」
 兵馬は遠慮して、まだ入り兼ねていると、
「さあ濡《ぬ》れます濡れます、あなた様も濡れます、この婆《ばば》も濡れますほどに」
 こういわれて兵馬は、好意を有難く思ってこの家の中へ入りました。
「さあどうぞ、お上りあそばして」
 兵馬が中へ一足入れると、障子のところに立っていたのはいま二階からちらと見合った少女、見れば髪も容《かたち》も眼の醒《さ》めるような御守殿風《ごしゅでんふう》に作っておりました。
 雨はなかなか歇《や》みそうもなく、風も少しずつ加わってくるようです。再三辞するもきかず一室に招《しょう》ぜられた兵馬は、そこに坐って手持無沙汰《てもちぶさた》に待っていながら、つらつらこの家の有様を見ると、別に男の気配《けはい》も見えないし、茶道具とか花とか風流がかったもののみ並べてありますが、しばらくすると絹ずれの音がさやさやと、
「お客様、御退屈でござりましょう」
 さきの女は、しとやかに入って来たので、
「いや別に――」
 兵馬は取って附けたような返事。
「もう歇みそうなもの」
「ごゆっくりあそばしませ」
 戸外では松の枝が折れたらしい。風雨の容易に止みそうもないのをもどかしがっている兵馬には、この女と差向《さしむか》いのように坐っていることが気が咎《とが》めるようでなりません。
 ここはいかなる人の住居《すまい》で、この少女は娘であろうか、それにしてもこの花やかな御守殿風は……とようやく不審にも思われてきましたが、深く推量すべき必要はないことで、雨が霽《は》れてしまうと兵馬は厚く礼を述べて、この家を立ち出でました。

         二十六

 雨が上って兵馬を帰してから暫《しば》らくたって、
「お松や、さっきの若いお方はお前の知合いなのかい」
「いいえ、雨に降り込められて門前で困
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