なことは問題にならず、そこでとうとう原著者自身に脚色して貰うより外はないということになって原著者自身が筆を取って脚色したのが白揚社から出版になった小冊子脚本全四幕のものであった。
ところが、その時は昼夜二回の非常時興行で、時間の組合せの上から二幕しか出せないということになった、しかもその二幕も間《あい》の山《やま》だの大湊《おおみなと》の船小屋だのいい処は除いて久能山と徳間峠しか出せないことになったから、ほんのお景物という程度に過ぎなかった。
左団次君とは紅葉館の前後、小生が左団次君の招待ということで、麻布の大和田で鰻《うなぎ》の御馳走になりながら木村錦花君川尻君あたりと話をした、そうしてどうやら斯うやら本郷座のタッタ二幕の上演を見るに至ったが、右のように間の山や船小屋のいい処が出ないで、比較的見すぼらしい二場所が出たのだが、あの時に松蔦君あたりに間の山のお君をさせ、左団次君に大湊船小屋の場を出させでもすれば同じ二幕でもずっと勝れた効果があったであろうが、余り効果が出ては困る人があったに相違ない、然し、左団次君の竜之助はたったあれだけでもなかなかの貫禄を見せ、その後病気で亡くなった
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