言で本郷座の檜舞台にかけるということになった、折角書きかけた佐藤紅緑氏の脚本は保留ということなのだ。そこで、二十四五歳の貧乏書生たる我輩は、本郷座附の茶屋「つち屋」の二階でこれ等新派の巨星と楼上楼下に集まる新派精鋭の門下の中へ引き据えられたのだ、当時の我輩の貧乏さ加減と質素さ加減は周囲の話の種子であったろうがその辺は後日に書くとして、兎に角ああいう中へ包まれたのでぼうっとしてしまった、それから例の高田を中心に藤沢だの伊井だの喜多村だのという、その当時は男盛りのつわ者の中で圧倒されながらかれこれと近づきやら作中の問答やらをしている、その中で俳優連とは別に一大傑物と近づきになったことは明らかに記憶している、それは即ち後の松竹王国の大谷竹次郎氏だ、これが新派の巨星連の中に挾まって「私が大谷です」としおらしく番頭さんででもあるような風に挨拶をした言葉をよく憶えているが、余り特徴のない大谷君の面だから面の印象は甚だ乏しかったが縞《しま》の羽織のようなじみな身なりをしていた。
 当時の松竹というものは関西では既に覇《は》を成していたが東京に於てはまだホヤホヤで而《しか》もどの興行も当ったというため
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