文字を紙に木版で彫って張りつけたのである、それから出版が本式に玄人《くろうと》の手にかかったのである。
その発売の時にカフェープランタンでYMDC君が司会者になって出版記念会が開かれた、色々の方面の面振れをYMDC君が集めてくれた、YMDC君はブローカーであり、同時に産婆役のような役目を勤めたのである。
そのうちに、一時中休みをした都新聞紙上へ松岡俊三君の斡旋でまた書き出したように覚えている、それはもっと前であったか、どうか時と日のところは後から考証して埋め合せる、そのうちに前の赤い裏衿のかかった四六版型ではどうも調子が変だから、これを組み替えてもいいからもっと気の利《き》いたものに改装して出したいという相談の揚句にフト調べて見ると組み版が前に云ったように美濃紙の手引へ四頁組み込んだのが原型になっているから、普通四六版組よりはずっと小さくなっている、そこでそのままそっくり菊半截型《きくはんさいがた》の書物の中に納まるのである、それを発見して神田君がこれは妙々菊半截へおさまるおさまるといってよろこんだ、そこで版をわざわざ組み直さないで、その紙型のままで縮刷本が出来ることになった、最初に出来たのは朱の羽二重に金で縮冊大菩薩峠と打ち出し、倶梨迦羅《くりから》剣や、独鈷《とっこ》の模様を写し出したものと覚えている、そこで、その縮冊で四冊今までの分が完結して発行され、引続きなかなかよく売れたものである、その四冊は第二十の「禹門三級の巻」で終っている、つまり、あの縮冊本の紙数にして四冊全体で二千頁から三千頁の間であり、ここまでがつまり都新聞紙上に掲載したものである、念の為にその巻々の名を挙げて見ると、
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一甲源一刀流の巻、二鈴鹿山の巻、三壬生と島原の巻、四三輪の神杉の巻、五竜神の巻、六間の山の巻、七東海道の巻、八白根山の巻、九女子と小人の巻、十市中騒動の巻、十一駒井能登守の巻、十二|伯耆《ほうき》安綱の巻、十三如法闇夜の巻、十四お銀様の巻、十五慢心和尚の巻、十六道庵と鰡八の巻、十七黒業白業の巻、十八安房の国の巻、十九小名路の巻、二〇禹門三級の巻。
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この巻々の名は書物にする時につけたので、新聞に掲げている時は斯《こ》ういう名前の無かったことは前に云った通りである、この四冊が絶えず売れていたもので、小生もこの印税が生活のうちの大
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