の世を去った。
 それから政治家としてはグラドストン、ジスレリー、ルーズベルト、といったような人があり、芸術家方面ではロダンだのイブセンだのという人があるが、これは歴史的価値に於て前の人達とは大分に遜色があるようだ。
 日本に於ては不世出の聖主明治大帝には蔭ながらにも親しく御俤を仰いだことの一度もないのは明治生れの自分として甚だ残念な次第である、それだけ自分の境遇というものが恵まれなかったのである。
 それから明治の功臣としても日常写真顔で、もう別人ではない程に馴染《なじ》んでいながら親しく風※[#「蚌のつくり」、第3水準1−14−6]を見たことも極めて乏しい、板垣伯は余輩が小学校時代自由党の総理として我が郷里へ鮎漁に来たのか招いたのか――したことがある、その時に政客や有志家達が夥しく押し寄せて来た中に板垣伯がナポレオン式のヘルメットのような帽子を被《かぶ》り、鮎漁の仮小屋に腰をかけ瘠《や》せたからだに長い髯《ひげ》を動かして周囲の者を相手に頻りに話しをしていたのを覚えている、件《くだん》の帽子を被っていたから人相はよく分らなかった。
 それから、伊藤博文公は韓国統監時代に李王世子のお伴《とも》をしてであったか、なかったか三越へ馬車(自動車ではなかったと思う)を乗りつけてそこから簡単に統監服のままで馬車へ乗り降りする処だけを見た、これも細かな表情などは少しも覚えていない、哈爾賓《ハルピン》で亡くなったのはそれから間もないことであった、それから原敬氏はこれも馬車であったか――たぶん箱馬車と思う――白髪に和服で悠然と納まり込んで走らせるのを見たし、都新聞の幹部会の時三縁亭の別室で一方には政友会の代議士総会があり、一方の別室に原敬と高橋|是清《これきよ》と野田卯太郎の三人が額を突き合せて話をしているのを見たことがある。
 軍人として、日本歴史上の名将東郷平八郎元帥の俤《おもかげ》をすら親しくは余は一度も見たことがない、乃木大将は或時士官学校の前から四谷の方へ出る処、荒木町であったか、あそこを通りかかった時にひょこひょこと質朴な老軍人が坂を上って来ると思ってよく見たらそれが乃木将軍であった、後ろに人力車を引き連れていたかと思う。
 明治、大正へかけての史上の大物としては余は目のあたり見たのは殆んどその位のものである、いやそれから大隈伯の演説は二三回聞いたことがある、山県公《
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