やまがたこう》は無論見ない、併し、好き嫌いという感情から云えば、世間に大いに好かれ人気の盛んであった大隈侯よりは、世間から悪く云われた山県公の方が自分は遙かに好きであった、なお、序《ついで》に云えば、山県系の嫡子として、やはり世間からビリケン呼ばわりをされて人気の乏しかった寺内元帥なども、自分は甚だ好きな人物の一人である、どうして好きかと問われると、何等の理由も事情も無いようなものだが、曾《かつ》て新聞にいて、ある部面を受持っていた時分、非常に些細と思われることであっても、事軍紀に関するような事ある時は、当時、陸軍大臣であった寺内氏は、必ず副官をして、それを説明或いは訂正をなさしめたものだ、それは必ずや副官達に心ある者があってするので無く大臣自身が、いかに新聞の隅までも眼を通して、そうして、細事をも粗末にはしないという用心が働いていることを、余は認めて、寺内さんという人はエライ、世間は非立憲だの長閥軍閥の申し子だのと悪評で充ちているけれども、なかなかそんな横暴一片の人ではないと、感心して、ひそかに寺内信者の一人になっていたまでの事だ。
同じような意味で平田東助氏(後に伯爵)の事も云える、平田氏も不人気な政治家ではあったが、余輩はその人を信じていた、平田氏の方では一向、余輩の事は知るまいが、余輩が預かっていた新聞のある部面の記事を、平田氏が内相であった時分に、激称した事があって、それが為に同僚の記者が大いに面目を施して来たというような事を帰社して話した事があった、その後、平田氏は所謂世間には不人気で烟《けむ》たがられたけれども、その後、漸く堅実な人気を以て、遂には大久保卿以来の内務大臣だとまで云われるようにもなった、余輩が他事《よそごと》ながら弁護した点に、世間は平田氏が村長格の性器であって、報徳宗を鼓吹したりすることは、一代の空気を陰化せしめてよろしくないという様な世論に反して、みだりに政客的放慢心を以て小器大善を論ずるのは宜しくない、苟《いやしく》も政治家が思想信念を以って世を導かんとするは大いに尊敬もし認識もしなければならぬという様の事を論じたのであったと思う。
少々混線するが少し前に戻って、余輩の生れた明治十八年という年に、ビクトルユーゴーが死んだのも奇縁と云わば云える、余の生れは四月四日で、ユーゴーの死んだのは五月二十二日だから何かの因縁を結びつけるには
前へ
次へ
全43ページ中24ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング